植民地から国民国家へ、そして21世紀世界へ――東南アジアにおける統治・抵抗・発展
本授業では、東南アジアの多様な統治体制がどのような経緯から出来上がっていったのかを学びます。20世紀初頭には、タイを除く、ほぼ全ての社会が欧米列強の植民地支配下に置かれました。およそ三つの層が現在の東南アジア世界を作り上げたと考えられます。第一の層としては、欧米列強がやってくる前の宗教的世界――イスラーム、上座仏教、カトリック、儒教、精霊信仰ーーがあります。第二の層としては、英仏蘭米による異なる植民地政策とこれらの植民地主義からの解放の形、そして第三の層としては20世紀に中葉に独立したのちの歴史経験――とりわけ冷戦期の経験――があると言えるでしょう。
東南アジア世界は多様です。また、共通文化もほぼありません。東南アジアとは、いわば文明の「受け手」であって、その影響の受け方によってそれぞれの社会の違いが生み出されてきました。本授業における基本的な問いとしては、それぞれの社会がどのように国民統合をしてきたか、というものです。細かい点を理解するよりも、大きな流れ、それぞれの社会の違い、それにも関わらず「受け手」としての類似性を学ぶことを目標とします。
【全体を通して】
東南アジア関係の新書
東南アジア史の入門書
【各回のテーマ・文献とノート】
3.ガイダンス、東南アジア世界の概要
文献:古田元夫「地域区分論」『岩波講座世界歴史―世界史へのアプローチ―』岩波書店, 1998.(ITC-LMS)
[植民地支配に抗して]
4.抵抗運動と宗教(ジャワ島、ルソン島、ベトナム)
文献:池端雪浦「フィリピンにおける植民地支配とカトリシズム」石井米雄編『講座東南アジア学 東南アジアの歴史』弘文堂, 1991.(ITC-LMS)
5.二つの上座仏教国家(タイ、ビルマ)
文献:石井米雄「上座仏教の構造」『タイ仏教入門』めこん, 1991.(ITC-LMS)
[植民地主義の諸相]
6.植民地支配の経済学(華人)
文献:酒井忠夫「近現代シンガポール・マレーシア地域における華人の社会文化と文化摩擦」同編『東南アジアの華人文化と文化摩擦』厳南堂書店, 1983.(ITC-LMS)
7.植民地統治における民族政策(マラヤ、フィリピン、ミャンマー)
文献:左右田直規「植民地教育とマレー民族意識の形成――戦前期の英領マラヤにおける師範学校教育に関する一考察――」『東南アジア――歴史と文化――』34(2005).
8.山と川と少数民族(ボルネオ、インドネシア外島、ルソン島山岳地)
文献:石川登「境界の社会史 : ボルネオ西部国境地帯とゴム・ブーム」『民族學研究』61(4) (1997): 586-615.
[脱植民地化]
9.日本占領の衝撃と脱植民地化の政治(フィリピン、インドネシア、ベトナム、ミャンマー)
文献:後藤乾一「総説」池端雪浦他編『東南アジア史8 国民国家形成の時代』岩波書店, 2002.(ITC-LMS)
10.市民か、民族か(フィリピン、マレーシア、シンガポール)
文献:シャムスル、A・B「東南アジアにおける国民形成とエスニシティ——マレーシアの経験より」綾部恒夫編『国家のなかの民族——東南アジアのエスニシティ』明石書店, 1996.(ITC-LMS)
[冷戦期]
11.平等か開発か(ベトナム、タイ、シンガポール)
文献:古田元夫「ベトナムにとっての社会主義――「社会主義の道」の堅持の意味するもの」『国際政治』99 (1992): p69-85.
12.人々をつなぐ宗教(タイ、インドネシア)
文献:速水洋子「仏塔建立と聖者のカリスマ――タイ・ミャンマー国境域における宗教運動」『東南アジア研究』53(1)(2015): 68-99.
[21世紀の課題]
13.発展の陰の貧困と少数民族(フィリピン、タイ)
中西徹「現代経済の「錬金術」と有機農業 : フィリピンにおける「食」と「貧困」」『東洋文化』100 (2020): 125-74.
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4月16日 茶話会パート2
茶話会パート2
2020年4月16日木曜日、8:30~
1.前回の投票
多かった回答
(コロナ禍によって世界は変わりますか?)
・1~2年の間は、大きく変わる
・20年後には、大きく変わっているが、他の要因で変わっている
(コロナ禍はどのような影響を及ぼすと思いますか?)
・米中対立の激化と世界のブロック化
・レイシズム(人種差別)の悪化
・民主主義の後退と独裁の強化
少なかった回答
・世界中での統一された対応
・資本主義の終わり
=>ナショナリズムの強さ、資本主義の「自然化」
2.世界史における疫病
14世紀以前:はしか、ペスト、マラリア、天然痘
良く知られた事例
A(1347年)ヨーロッパにおけるペストの蔓延
B(1492年以降)ヨーロッパ人による中南米の侵出と天然痘やマラリアの蔓延
C(1918年)第一次世界大戦末期のインフルエンザ
D(1980年代)エイズ
二つの概念
「微生物によるミクロ寄生としての感染症」
「軍事的侵略や経済的収奪も人間によるマクロ寄生」
基本文献:マクニール『疫病と世界史』上下、中公文庫
3.A(1347年)ヨーロッパにおけるペストの蔓延について
・モンゴル帝国(1279年~1350年が絶頂期)
・交易の活性化*
・ヨーロッパの総人口の1/3が死亡
・ノミ、ネズミ、クマネズミが感染経路、その後くしゃみ等(?)
・1665年のロンドン・ペスト大流行が北西ヨーロッパにおける最後の流行
【問い】なぜ収まったか? A建築の変化(わらぶきの屋根から瓦葺きの屋根へ) B異なる疾病の連鎖(ハンセン病→ペスト→結核)
・20世紀前半の抗生物質の発見
*文献:アブー=ルゴド, ジャネット・L.『ヨーロッパ覇権以前―もうひとつの世界システム』上下. 岩波書店, 2014.
4.C(1918年)第一次世界大戦末期のインフルエンザ
・6億人が感染、2000万人以上が死亡
・1700万人がインドで死亡
クロスビー著、西村秀一訳『史上最悪のインフルエンザ』みすず書房、2020
出版社へのリンク
日本語版への序文
新版への序
第1部 スパニッシュ・インフルエンザ序論
第1章 大いなる影
第2部 スパニッシュ・インフルエンザ第一波――1918年春・夏
第2章 インフルエンザウイルスの進撃
第3章 3か所同時感染爆発──アフリカ、ヨーロッパ、そしてアメリカ
第3部 第二波および第三波
第4章 注目しはじめたアメリカ
第5章 スパニッシュ・インフルエンザ、合衆国全土を席巻
第6章 フィラデルフィア
第7章 サンフランシスコ
第8章 洋上のインフルエンザ──フランス航路
第9章 米軍ヨーロッパ遠征軍とインフルエンザ
第10章 パリ講和会議とインフルエンザ
第4部 測定、研究、結論、そして混乱
第11章 統計、定義、憶測
第12章 サモアとアラスカ
第13章 研究、フラストレーション、ウイルスの分離
第14章 1918年のインフルエンザのゆくえ
第5部 結び
第11章 人の記憶というもの──その奇妙さについて
【問い】なぜウィルスは怖いのか?
5.その他の考察
(進化生物学)
ライアン, フランク, 夏目大訳『破壊する創造者: ウイルスがヒトを進化させた』早川書房, 2011.
(疾病と世界史)
・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』上下、草思社文庫、2012
・クロスビー『ヨーロッパの帝国主義』ちくま学芸文庫、2017
・Davis, Mike. Late Victorian Holocausts: El Niño Famines and the Making of the Third World. London: Verso, 2017.
(文学)
・ボッカッチョ著、平川祐弘訳『デカメロン』上中下、河出文庫、2017(A)
・カミュ著、宮崎嶺雄訳『ペスト』新潮文庫、1969
・Porter, Katherine Anne. Pale horse, pale rider: three short novels. San Diego : Harcourt Brace Jovanovich, [1990], c1939.
【問い】コロナウィルスに関する自分の物語を語る
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4月23日 第3回 ガイダンス、東南アジア世界の概要
0.ガイダンス
1.古田元夫「地域区分論」
(1)方法としての地域
地域=研究対象
その当たり前すぎる例としての、国民国家
「日本人の主体的な世界史認識を獲得する方法」
竹内好 先進=日本、後進=中国、の脱却
上原専禄 13の地域世界*
遠山茂樹 資本主義にさらされるなかでアジア共通の経験
「社会主義アジア先進論」
板垣雄三の「n地域」論
*世界を文化・文明的に地域に分けて考えると言うのは、最近再注目されてきている視点。
鈴木董『文字と組織の世界史 : 新しい「比較文明史」のスケッチ』山川出版社, 2018.
①国民国家を越えて
「一国史―地域史―世界史」への反省=歴史学研究会
「朝鮮民族」「日本民族」・・・に対する塚本学の批判
②モノ、ヒト、情報の流れの国際化、地域経済圏んの勃興
濱下武志の「域圏」
国家―国際 ではなく 国家―域圏―国際
「空間の意識化」
③フィールド・ワークの可能性
「資料の舞台を実際に歩き、歴史的景観を復元することによって、文献資料では見落とされてきた新しい情報を入手することができる。」
桜井由躬雄「歩きながら考える歴史学」
④「ヨーロッパ近代=模範」の否定
斉藤孝「人間の営みと歴史の展開の多様性を多様なまま捉え」
高谷好一「世界単位」
=>「「方法としての地域」における地域とは、基本的には、歴史家の課題意識に応じて設定される、可変的で多様な性格を有するものである。」
(2) つくられる地域―東南アジア
東南アジア=「歴史上、単一の文明によって統合された経験をもたない地域であった」
大東亜共栄圏=共産主義の侵出の阻止=日本の復興に大きな役割を果たす地域
ASEAN→日本の東南アジア研究
東南アジア10カ国(11カ国)
アジア二大文明のはざま「インド化」「中国化」に対する、「東南アジアの側の主体性」
「民族解放史観」「国民国家史観」を越えて。
生態環境への注目
・人口密度の低さ
・国際的な交易
高谷好一「他形」としての東南アジア
石井米雄と桜井由躬雄:自給的小農民が形成する農業空間と、その上に展開する国際的商業空間
=>作られた東南アジアという地域
(3) こわされるちいき
「ぐじゃぐじゃ」な地域⇔燦然と輝く世界文明
インド「海洋国家性」→西アジア、中央アジア、東南アジアとの関連という三つの方向への分解
中国古代史→東アジア、北アジア、西域、西南アジアなど「外に開かれた柔軟な構造をもった中華」
ヨーロッパ史にとっての「イスラームの衝撃」
川勝平太:産業革命=「アジアからの衝撃」
帝国=ボーダーレス、の再評価
茂木敏夫の中華帝国論
「多様な中華」、「独自の歴史世界としての東南アジア」という逆転
歴史家の概念操作?
「それは、歴史研究である以上、ある「地域」概念の有効性を説くためには、その歴史的実在性――客観的に抽出されるような関係性であれ、ある歴史段階において存在した主観的意識としてであれ――を提示しなければならないからである。」
事例としてのベトナム
「小中華帝国」
「両属」→植民地化
植民地化と阮朝の方向性の同一
複数地域の重複性と重層性
【問い】「客観的に抽出されるような関係性」(関係性)と「ある歴史段階において存在した主観的意識」(意識)とは何を指すのか?
2.領域の誕生へ
・マンダラ的世界
王、カリスマ、その王への忠誠
白石隆『海の帝国―アジアをどう考えるか』中公新書、2000
・建国神話
外来の神話・伝統の活用
例 アンコール文明の建国神話
伊東照司『アンコールワットの彫刻』 雄山閣, 2009.
弘末雅士『東南アジアの建国神話』山川出版社, 2003.
・宗教の三重構造
表層=上座部仏教、イスラーム教、カトリック
中層=インド化
深層=精霊信仰
・ヨーロッパ人の到来と植民地
ポルトガル人:
オランダ人:
イギリス人:
フランス人:
アメリカ人:
白地図:画像
【問い】誰が東南アジアの国境を定めたのか?国境を定めることが持つ心理的な影響とは何か?
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4月30日 第4回 抵抗運動と宗教(ジャワ島、ルソン島、ベトナム)
(前回の続き)
・ヨーロッパ人の到来と植民地
1. 池端雪浦「フィリピンにおける植民地支配とカトリシズム」
(1)植民地支配の正統性
16世紀後半:スペインの侵略
キリスト教の布教=支配の正当化、しかし二つの問題
A「世俗の政治的支配権」を伴うのか
Bヨーロッパ人の布教の残酷さ
合法的根拠「住民が慎重かつ自由に考慮してそれ[布教]に同意を与えたという事実」
貢税徴収の正当性をめぐる論争
第一回マニラ宗教会議の議論
<超自然的統治>→フィリピンは悪魔の教えで混乱→国王の君主圏の行使→伝道事業
(文献)カサス, ラス、染田秀藤訳『インディアスの破壊についての簡潔な報告.』岩波書店, 2013.
(2)教会による統治
国王の聖職者に関する推薦権→国王が「海外植民地における実質上の長」
(双頭性?)
・マニラ政庁(総督)―州(州長官)―プエブロ(町)(町長)
・マニラ大司教区(大司教)―直轄区と司教区(司教)-聖堂区(主任司祭)
通常はプエブロ=聖教区=貢税や強制労働の単位
プエブロの統治=原住民官吏、主任司祭=プエブロ政府の監督、主任司祭>原住民官吏
住民の管理=納税通知書(cédula)
主任司祭=町評議会の顧問、各種委員長、検閲官、警察・兵役の監督官、視学=独占的権限
(3)プエブロ社会の秩序と統合
そもそもの集団=バランガイという血縁集団
プエブロ=ポプラシオーン+バランガイ(バリオ、シティオ)
ポプラシオーンの中心のプラザ(広場)=教会、町役場
カババヤン意識
スペイン人司祭―プリンシパリーア(現地人)―現地人
プリンシパリーア
・通訳、人頭税の徴収、強制労働の徴発、(もっとも重要)カトリシズムの普及
・スペイン語・カトリックの教義の学習、教義書暗唱の指導、ミサの手伝い
・「契約書」(Tadhana)による名誉と拘束
・ドン(Don)の称号
(4)カトリシズムの逆説的機能
18世紀初頭から現地人による体系的理解
精霊の世界における死の偶然性→カトリシズムにおける来世・天国・死の新たな意味付け
祈祷手引書・「美しい死」・パション
現地化→マリア信仰の強さ
(5)兄弟会の抵抗運動
聖ヨセフ兄弟会:1832年創立、南タガログ地方に数千人の会員
町当局によって襲撃(40年)
軍隊と戦闘。500人死亡、200人処刑(41年)
理由:
①教会や修道会の指導を受けない
②メスティーソ(華人・スペイン人との混血者)を排除
③死後天国に行くことの条件として、教会への寄付と免責ではなく、祈りに徹すること。→貧乏人の救済。パションの詠唱やバナハオ山での苦行。
弾圧への抵抗:弾圧こそが受難であり試練、試練を乗り越えることにより天国に行ける。
19世紀末の革命運動への連鎖
(文献)イレート, レイナルド・C.、清水展、永野善子監訳 『キリスト受難詩と革命 1840~1910年のフィリピン民衆運動』 法政大学出版局, 2005.
(文献)池端雪浦『フィリピン革命とカトリシズム』勁草書房, 1987.
【問い】池端の言う「逆説的機能」とは何か?「逆説的機能」は、カトリック以外でもありうるか?
2.反帝国の宗教(千年王国)運動の諸相
(1)ルソン島
第一フェーズ:ホセ・リサール等のプロパガンダ運動、リガ・フィリピーナ、ボニファシオとカティプーナン、リサールの処刑
第二フェーズ:カティプーナンの戦い、地方勢力の勃興、テヘロス会議とボニファシオ(カティプーナンの指導者)の処刑、アギナルドによる地方勢力の攻勢、ビアクナバト憲法、アギナルドの香港行き
第三フェーズ:革命の再開、米西戦争の波及と米軍の上陸、マニラの共同管理、マロロス憲法、比米戦争の勃発、ゲリラ戦、平定宣言(1902)、タガログ共和国の陥落(1906)
(2)ベトナム
東アジア国際体系と「南国意識」
「脱中国化のための中国化」と「脱中国化のための文明化」(古田、15)
黎朝初期(レ朝、15世紀):儒教と科挙官僚制度による集権的国家体制
(以下 桜井)
科挙と郷紳
フエ条約(1883、1884)→清仏戦争→天津協約(1885年6月)→勤王運動(1885年7月から)
第一フェーズ:フエ宮殿の陥落(フエ事件)、ハムギ帝の都落ち、檄文の発布、対仏抵抗の発生
檄文の内容[中国の故事にならう](PDF)
抵抗の主体:①ハムギ宮廷官人、②地方官吏、③回休官吏、④村落有力者
圧倒的な武力の差、パトロール方式から駐屯法式へのフランス軍の転換、村落の降伏→沈静化
第二フェーズ:「匪賊」の反乱、フエ王朝ではなく中国の年号の使用
第三フェーズ:ファン・ボイチャウの東遊運動
(文献)古田元夫『ベトナムの世界史 : 中華世界から東南アジア世界へ 増補新装版』東京大学出版会, 2015.
(文献)桜井由躬雄「ベトナムの勤王運動」池端雪浦他編『 植民地抵抗運動とナショナリズムの展開 岩波講座東南アジア史 第7巻』岩波書店, 2002.
【音楽】ガムラン Srimpi Sagapati
(3)ジャワ島
前史:マジャパヒト王国(1293~1527?)ヒンドゥー教の王国
デマック王国等の盛衰(1527~)、ジャワ最古のモスク、イスラーム教王国
オランダ勢力のマタラム王国への関与(17世紀後半)
第一フェーズ:植民地統治の効率性を求め、オランダ植民地主義、ジャワ貴族の仲介を廃止。
ディポヌゴロ:スルタン王家を去り、王家の守護神と交信したのち、「正義王」を名乗る。理想世を説く。
5年間にわたるオランダとの戦争。→ディポヌゴロの処刑
第二フェーズ:ディポヌゴロ復活のうわさ→遍歴中のジャワ人やジョクジャカルタの宗教家による新たな抵抗→弾圧→植民地財政の悪化
強制栽培制度の導入とジャワ人支配者の再導入→村落組織の強化+首長の権限強化→蓄財→首長家族のメッカ巡礼
第三フェーズ:
A農民指導者の運動、1880年代のサミン運動。理想世を説き、納税や労働義務を拒否→弾圧
Bアチェ王国(スマトラ島北部)、メッカ巡礼者が多数、タレカット(イスラーム神秘主義教団)の勃興やイスラーム寄宿塾の普及、反オランダ活動、バンテン王国の反乱(法学者が中心)
オランダはイスラームを懐柔し容認する必要に迫られる。→「イスラーム同盟」の誕生
(文献)弘末雅士「インドネシアの「聖戦」」池端雪浦『岩波講座 東南アジア史7 植民地抵抗運動とナショナリズムの展開』岩波書店, 2002.
(最近のイスラームとインドネシア・ナショナリズムの関係についての研究)
山口元樹『インドネシアのイスラーム改革主義運動 : アラブ人コミュニティの教育活動と社会統合』慶應義塾大学出版会, 2018.
(インドネシアの思想史)
土屋健治『インドネシア: 思想の系譜』 勁草書房 1994.
(やや古いがインドネシア・ナショナリズム論の名著)
永積昭『インドネシア民族意識の形成』東京大学出版会, 1980.
【問い】ルソン島、ベトナム、ジャワ島の宗教と抵抗の関係はどのようにまとめられるか?
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5月7日 5.二つの上座仏教国家(タイ、ビルマ)
1.前回のやり残し分(ベトナム)
【音楽】ベトナムの管楽器タン・バウ 画像
2. 石井米雄「上座仏教の構造」『タイ仏教入門』めこん, 1991.(ITC-LMS)
(1) 神を立てない宗教
教義を論じない。
「神を立てる宗教」→創造主、救済者
「神を立てない宗教」→人間の業、自己救済
「プラチャオ」としての神→プラーナ神話の「おとぎの国の住人」
(2)苦と解脱の論理
「比丘たち、とうとい真実としての苦の消滅に進む道(道諦)とはこれである。つまり八項目から成るとうとい道、すなわち、正しい見解、正しい思考、正しい言語、正しい行為、正しい暮らしぶり、正しい努力、正しい心くばり、正しい精神統一」
毒矢の話→宇宙論についての問いを拒否。「記述することも、説明することもできないもの」→「すぐれて実践的であり、問題解決的である」
「苦」 dukha 「すべてのものは苦である」。四つの部分「病気」「病気の原因」「病気の不在」「くすり」
「無常」「無知」→「現実のあるがままの姿を知らなければならない。」「「知vijja」によって苦よりの解脱は達成されるのだ。」
「強者の論理」:「身心の調整」「精神統一」「高度の知恵」→「完治」の獲得、「アラハンこそは、上座仏教のめざす理想の人格である。」
小乗仏教:大乗仏教運動による独善性への批判、インドではなくなった。東南アジア大陸部では上座仏教、すなわち「長老の教え」として信仰の対象に。「エリート」と「マス」の宗教。
(3)信仰体系の二重性
凡夫:「無知」からくる苦しみ。しかし「知」を得るにも忙しすぎる。「世間とのかかわりを断つわけにもいかず」
出家道:「修行の専門職」「「在家者」の喜捨に依存」「「出家修行者」はパーリ語で、ビク(bhikkhu)と呼ばれている。」「食物を乞う者」
・「髪の毛をそり落とし、黄色い衣をまとう。」
・サンガという集団に帰属
・「日夜、ひたすら「八正道」を実践する努力する尊敬すべき存在」極めて「特権的」「自己の救済のみに専念することを許されているのであるから。」
・出家者の宗教:「一様に黄衣をまとい、一様にパーリ語をそらんじている。」「教理の発展とてない」
・出家者=人口のごく一部。民衆もまた仏教徒。
出家者の仏教と民衆の仏教がどのように関係しているのかが課題。
出家者の宗教と民衆の宗教 ビクとサンガ
【問い】上座部仏教国において、「近代」とは何を指すか?また、どのような政策の追及によって植民地化を避けられるか。
(回答)
・キリスト教的理性に抗する、上座部仏教にもとづいた理性の主張。
・エリート・マス双方の立場を保証→サンガの制度化と国家管理化
・キリスト教文化への理解。
3.タイ:近代との出会い
(1)キリスト教
・ドイツ人、イギリス人、アメリカ人の宣教師-病気の治癒、医療品の配布→キリスト教徒の増加
・ラーマ四世モンクット王(在位1851-1868):西洋の知識への関心と習得→フランス人宣教師パレゴア神父へのパーリ語教育とカトリック教義の学習
・ビクとしてのモンクット王:20歳にして出家、サンガにおける天国地獄・迷信俗信への反発、パーリ語の学習、仏典への造詣の深さ
・キリスト教徒との論争、上座部仏教=「明快な、道理にかなった賞賛すべき宗教」
・「タマユット派」仏法の忠実な信仰を創設、注釈書500冊の排除、パーリ語・シンハラ語の原典と比較し原典校訂、パーリ語研究の中心的機関としてのボーウォンニエート寺
・西洋の合理主義思想に対する思想としての、上座部仏教
・モンクットいわく「まことのビクは、自己自身の救済を確信するだけであっては不十分である。すべからくその知識と権威とを同胞の救いのために用いることをみずからの義務として課すべきである。」
(2)政治改革
・ラーマ五世チュラロンコン王(在位1868-)の「チャクリ―」改革→地方行政改革、州郡の整備、徴税制度の改革
・1902年サンガ統治法:①出家者は本籍の寺院を持たなければならない。②全国を一定の法政管区に整備の前提、③国家の法のもとにサンガを置く
・1932年立憲クーデター
・1941年新サンガ統治法:60条からなり、三権分立に対応。
サンガ議会:タマユット派とその他の伯仲(ビク数は、1対20)
法臣会議:10名以下の法臣、法政、教育、布教、建設の局を置いた。
司法府:ヴィナヤ(サンガの自治規則)に基づく裁判
・その後、サンカラート(法王)の人事をめぐり、タマユット派とその他の派閥が対立
・軍事独裁者サリットの合理主義→国家開発の重点化→1962年サンガ法へ
(4)その他の改革
(ラーマ四世)
・一夫多妻制の廃止
・タート(隷属身分)の廃止(日本の身分制廃止(1871年解放令)、朝鮮における奴婢の改廃(1894年甲午改革))
・国勢調査の実施
・欧米留学
(ラーマ五世)
・中央集権制の確立
・教育制度の近代化(公教育)
・外国人専門家の採用(ただし、異なる国から)
・東南アジアやインドといった植民地の視察
【文化作品】「王様と私」(ユル・ブリンナー主演)家庭教師アンナ・レオノーウェンズがモンクット王を説得し、タート妻を解放させる話。モンクット王を滑稽に描いている。タイでは長らく上映禁止。ただ、タート妻解放の文脈が、「アンクル・トムの小屋」というアメリカ奴隷制を告発する小説を基にしている、という点が興味深い。その後、ジョディ・フォースター主演の『アンナと王様』としてリメイク。また、渡辺謙がブロードウェイの上演ではモンクット役で好評をはくす。
3.ミャンマー(ビルマ)の近代
ビルマ地図
(1)ミャンマーという社会と国家
・9世紀:エーヤワディー川流域にビルマ人が出現
・伝統王朝:
ピュー人(1~5世紀以降)、モン人(6世紀ごろ?)モン王国
→バガン王国(ビルマ人)
→シャン人(北部)/インワ朝(ビルマ人)/ハンターワディ―朝(モン人、ペグ―)
→タウングー朝
→コンバウン朝
・ミャンマー・ナショナリズムで称賛される三人の王:
アノーヤター王(在位1044‐77):バガン朝の初代王、おびただしい数の寺院や仏塔を建設、仏教国の基礎作り
バインナウン王(1551-81):タウングー王国の三代王、ラカイン州を除きビルマ全土を統一
アラウンパヤー王(1752-60):コンバウン朝初代王、ミャンマー全土の勢力下においた、慣習法を法典化。
(2)コンバウン朝とイギリス
・イギリス東インド会社の使節に対する無対応(~1824年)
・1824年:7代王、アラカン地方の領土争いでインド会社と戦争(第一次英緬戦争)→英パガン占領→ヤンダボー条約:アラカンとテナセリムを割譲、アッサムとマニプールへの宗主権を喪失させる
・8代王、ヤンダボー条約を遵守せず。
・1851年:イギリス人船長を殺人罪で罰金刑に。→イギリスが侵略(第二次英緬戦争)→ピグー地方の割譲(下ビルマ全体が英領に)→ラングーン(ヤンゴン)を首都とした英領ビルマ州の形成・コンバウン朝の内陸国化
・和平派の第10代ミンドン王が第9代の主戦派を倒した。その後の近代化政策:
精米工場等の工業化の促進
外国人技師の登用
国費留学生制度の設立
租税制度の改革
・ミンドン王(1853-78)の宗教政策
2400名を動員した三蔵経典の総合的点検
シュエダゴン・パゴダへの奉納
・ミンドン王の病死→第11代王ティーボーの改革
内閣制度の整備
・保守派の巻き返し→改革の失敗→イギリスを牽制するためにフランスへの接近→イギリスによる再侵略と占領→コンバウン朝の終わり(第三次英緬戦争 1885年)
【問い】なぜタイは植民地化をまぬがれ、ミャンマーは植民地化されたのか。また、植民地化の影響をどのように考えるか。
(回答)
・ミャンマーは、イギリス植民地への近さと19世紀初頭には帝国とぶつかってしまったこと。タイには、緩衝国になり得るという地政学的位置があった。
・ミャンマーは、支配されてから近代的改革を行ったから。
・タイの方が、ミャンマーよりも、素早く効率的に近代化改革に成功した。
参考文献:
石井米雄『タイ仏教入門』 めこん 1991.
石井米雄、飯島明子『もうひとつの「王様と私」』めこん, 2015.
奥平竜二「上座仏教国家の成立と崩壊」阿曽村邦昭、奥平竜二『ミャンマー : 国家と民族』古今書院, 2016.
岩城高広「ミャンマーの三大王と東南アジアの歴史」阿曽村邦昭、奥平竜二『ミャンマー : 国家と民族』
根本敬『物語ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで』中央公論新社, 2014.
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5月14日 6.植民地支配の経済学(華人)
1.課題文献 酒井忠夫「近現代シンガポール・マレーシア地域における華人の社会文化と文化摩擦」
(1)ババ層の発生
「華僑」―「中国本土郷土を離れて、外地外国に一時的僑居した中国人」清末からの使用
「ババ」-「海外にでた華人(男性)は、現地である程度の生活の基礎を固めると、現地で現地女と結婚して第二の家庭を営む風習があった。」―男性の子供(孫、ひ孫は?)、原義はトルコ語(なぜトルコ語?)。
「ニョニャ」―同上、女性の子供(孫、ひ孫は?)
総じて尊称。
「蕃坊」=中国港市におけるアラブ人の居住区、
マレー半島の地図
マラッカ:カンポン=ヒナ、欧亜混血のポルトガル人→土着化した華人共同体→19世紀の新着の華人、幇(会館)共同体
ボルネオ:華人の集団僑居(どういう意味?)アラブ人との混血→「蘭芳大総制」。可能にした要因、①土着集団との親密協同、②指導者層間の婚姻、③義兄弟の結盟関係(特に客家)、④外来の侵入者からの防衛
トレンガヌ:「唐人坡」、高、劉、黄、林の四姓、ダトゥ化(イスラム的位階)、カピタンの称号も。
(2)開拓華人集団の共同体からシンガポールの会頭の変遷まで
開発華人手段:ペナンにおける三名の語り(10)→「張が開拓者・開祖的神として「大伯公」」に→「申張公理」という法?、ダトゥ化。
18世紀、タイ人に抗する華人(13)、華・マレー・英の三か国語を習得するババも、クダーの
クランタンの華人海賊も(客家)。
19世紀ババ指導者層の発展:人数の増加、「新客」の流入、「大衆爺」と会館、ババの階層化(上層華人ババ、没落ババ)。
マラッカにおけるカンポン=ヒナ
オランダ時代(1641-1795):7区それぞれの里長集団→経済的・宗教的機能を担当する薫事(とうじ)→薫事からカピタンの選出(17)
イギリス時代(1824年以降):ババ・カピタン系列+新客華人福建会館→捐金(えんきん)→「観」=福建の紳富層の称号
19世紀末~20世紀初頭 ペナン・マラッカ・シンガポールにおける「新客」の急増→多くの会館、秘密結社の増加(会館と秘密結社の関係は?)
猪仔貿易「伝統的な中国の奸商支配下の無頼・棍徒(こんと)の組織」による人身売買。
郷土幇=会館(?)(22)
(3)「土生化」(現地化)と国民化
シンガポールにおける華人の土地所有(1830)(23)
マラッカ・ペナン・シンガポールにおける「イギリス・ヨーロッパの政治・文化との摩擦・協調によるババ化の方向が促進された。」→「新客」が「買弁的」と揶揄。
スルタン体制との関係での土着化。
葉亜来のラジャとの連合→カピタンの職→セランゴールの錫鉱山開発→セランゴール州理事会議員
葉亜来の協力者、客家が中心。
土生華人の増加→「新客」華人の増加というよりも、出産によるもの。
1900年「海峡植民地土生公会」の設立。Ku Hung Ming辜鴻銘、Lim Boon Keng林文慶、Tan Cheng Lock陳禎祿らが有名「マレー語や英語は話すが、華語を話せず、マレー服を着、マレー・中国折衷のNyonya Dishesを食べる。」(35)「五教混一」的宗教意識→マレー人との摩擦を生まず
「マレー人社会と閩系を中心とする会館華僑社会との間の文化摩擦よりも、18世紀依頼のババ層及び英植民地政策下のババ層に対する19世紀より20世紀初の会館華僑層との間の生活摩擦・文化摩擦の方が強いように考えられる。」
Tan Cheng Lockの土生的マレー国民的華人文化(38)。明治国家日本の六諭に似ている。
2.文化接触としての論点(『東南アジア華人の華人文化と文化摩擦』から)
(1)時代区分 Wang Gungwu王賡武によると「①19世紀以前の閩粤人流寓時代、②19世紀の華人時代、③1903年以降の華僑時代、④1955年以後の新華人時代」
→①のグループ=ババ化、しかし②における「新客」の流入と華人文化の復興、地縁的団体組織である「会館」と血縁的結合組織である「宗祠」というアイデンティティの中心。
(2)19世紀、幇の運営と幇同士の衝突。
会党:マラヤ華人会党の系譜は、中国本土に発達した天地会の流れをひくもの。「天地会は清代の前半期に反清抵抗運動のさかんであった台湾・福建地域で誕生し、華南各地に広まった華南型の会党で、政治的には「反清復明」を掲げ、清朝打倒の革命運動にも重要な役割を果たした。」
幇:営利事業のために会党に関係に依存した。蓄財の方法「必ず政治権力(植民地政府、マレー人首長等)に頼るとともに、会党の擁護を必要とした」会党の協議・規律が植民地政府の法よりも重要。会員の相互扶助の徹底。→他の幇や会党に対しては排他的・敵対的。
衝突の要因:①仕事の奪い合い、②伝統的敵対意識、③女性の奪い合い。
1867年のペナンの抗争:義興党は白旗党(非華人)と、権徳会は紅旗党(非華人)と連合。ペナン人口36,000人の内、35,500人が参加。
(3)華人の僑民設立学校
植民地教育が進んでいるところでより盛んに。シンガポール34、ペナン10、バンドン32、長崎1、横浜3、朝鮮4、サンフランシスコ5(民国2年(1913年)刊行「領事経理華僑学務規定」からの資料?)
【問い】東アジア(例えば日本)やアメリカへの華人移民と比べると、東南アジア華人の特徴として何がありそうか?
3.19世紀末までの各国の華人
(1)フィリピン:
5つのカテゴリー:①スペイン人、②スペイン系メスティーソ(混血者)、③中国系メスティーソ、④原住民、⑤中国人。異なる納税義務。①なし、②7レアル、③29レアル、④16.5レアル、⑤10レアル。キリスト教徒でないと官職につけない。
1884年の改革の結果、三つのカテゴリー、①本国生まれのスペイン人、②フィリピン人、③中国人。スペイン系メスティーソ、中国系メスティーソ、原住民の税率が同じ。
中国人メスティーソ:特殊な種類の中国人(キリスト教徒)→特殊な種類のフィリピン人へ(文化的、職業的、居住地による)。
(2)マラヤ
人口統計:①ムラユ(マレー)人、②中国人、③インド人、その他という区分
1911年~40年:①1.6培、②2.6培、③2.8培
グラフ
「複合社会」「ひとつの政治単位のなかで隣り合わせた生活をしていながら、お互いに混じり合うことのない二つないしそれ以上の要素または社会秩序を内包するような社会」
ババ、ニョニャの他に、ユーラシアン(欧亜混血人)、プラナカン(マラヤ生まれの非マレー人、ムラユ語を常用、ムラユの慣習に従う人々)
ムラユ人=河口付近のイスラーム王国に住む、スルタンの支配下で漁業・交易、自給的稲作農業、伝統的宗教教育
錫鉱山:中国人資本とムラユ人資本が、ヨーロッパ資本によって駆逐される。
ゴム園:20世紀初頭に耕作面積拡大、ヨーロッパ人が資本投下し、プランテーションを拡大。インド人(62%)、中国人(25%)、ムラユ人(13%)
マレー人保留地法(1913年):ムラユ人の土地を非ムラユ人に転売禁止。
中国人の流入:1875年クーリー貿易(契約移民)の廃止→1893年清朝が出国禁止令廃止→自由移民としてマラヤに流入→錫鉱山の72%の労働力が華人→錫鉱山の機械化・合理化→1929年大恐慌→失職し、都市に流入→都市住民の男性化→からゆきさんと猪花
華人労働者とマラヤ共産党
(3)大陸部
メコンデルタ:華人の米穀承認→島嶼部・フィリピンに輸出
(タイ)
長い間の流入:タイ女性との結婚による混血化→タイ人化
タイにおける『三国志』→数百のバージョン
近代国家=租税国家としてのタイ:労役・物納の廃止→人頭税男性1人6バーツ。当初は中国人は免除、その後、4バーツ、1909年6バーツ→中国人商店のストライキ、タイ人と同等。
辛亥革命前後の中国人ナショナリズム:1908年孫文が訪問、同盟会の組織、中華学校、中国の新聞の開始、共和主義の称揚。
タイ・ナショナリズムや絶対王政のタイ社会と矛盾。
ラーマ六世王ワチラーウットによる「東洋のユダヤ人」という華人批判
・タイで得た利益を本国に持ち帰ってしまいタイに利益を与えない華僑/タイ語を話すがタイ国への忠誠心が弱い華人、という二種類の華人に対する批判。
→エミー・チュアにみる東南アジア認識:より優れた華人→現地人エリートともに腐敗→大衆の怨嗟の対象→反華人暴動を誘発。のちに、アメリカにおけるアジア系の優秀さを強調。
【問い】華人を文化的カテゴリーとみるべきか、それともセンサス上、税制上のカテゴリーとみるべきか。どちらとして認識したほうが、チュアの見解に反論できるか。それとも、チュアの見解は肯定すべきか。
(参考文献)
アンダーソン, ベネディクト著, 糟谷啓介, イ・ヨンスク訳『比較の亡霊 : ナショナリズム・東南アジア・世界』 作品社 2005.
池端雪浦『東南アジア史 2 島嶼部』山川出版社, 1999.
石井米雄, 桜井由躬雄『東南アジア史 1 大陸部』山川出版社, 1999.
華僑華人の事典編集委員会『華僑華人の事典』丸善出版, 2017.
高嘉謙(張佳能、田村容子訳)「赤道線上の風土――新馬華人の粤謳と竹枝詞について」(『中国二一』五〇)
篠崎香織『プラナカンの誕生 : 海峡植民地ペナンの華人と政治参加]九州大学出版会, 2017.
スキナー, ウィリアム, 山本一 訳『東南アジアの華僑社会 : タイにおける進出・適応の歴史』東洋書店, 1988.
谷垣真理子, 塩出浩和, 容應萸『変容する華南と華人ネットワークの現在』風響社, 2014.
チュア, エミー著, 久保恵美子訳『富の独裁者――驕る経済の覇者:飢える民族の反乱』光文社, 2003.
ワレン, ジェームズ著、早瀬晋三監訳『阿子とからゆきさん』法政大学出版局, 2015.
Wickberg, Edgar. The Chinese in Philippine Life, 1850-1898. New Haven,: Yale University Press, 1965.
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5月21日 7.植民地統治における民族政策(マラヤ、フィリピン、ミャンマー)
1.文献:左右田直規「植民地教育とマレー民族意識の形成――戦前期の英領マラヤにおける師範学校教育に関する一考察――」『東南アジア――歴史と文化――』34(2005).
・師範学校教育がどのように「マレー民族」を作り出したか。
・卒業生には左派のみならず、右派のUMNOの活動家も。
・民族=意識の問題(アンダーソン)
(1)「望ましいマレー人」
Aマレー人教育の展開
・前近代クルアーン塾→ポンドック(イスラーム寄宿塾)、マドラサ(近代的宗教学校)
・マレー連邦州とマレー非連邦州(より高い自治) 地図
・英領マラヤにおける人口構成の変化
・四つの学校:英語学校、マレー学校、華語学校、タミル学校
・1927年教育規定 8歳入学 5年間教育
・中等教育マレー語教育機関 師範学校、農業学校、工業学校
・マレー語教育:1821年のペナン・フリー・スクール 『アブドゥッラー物語』、1920年に46000人就学
・1922年にパラ州(セランゴール州との州境)タンジュン・マリムにスルタン・イドリス師範学校を設立
・女子教育の遅れ
B「望ましいマレー人」像
・マレー語を話す農民・漁民、イギリス思想教育への反対(1890年ペラ州理事官スウェッテナムの提言、『1920年マレー連邦州年次報告』)
・背景:①マレー人社会秩序の維持、②インドにおける英語教育の失敗、インド中間層の台頭、③マレー人による食糧生産、④マレー人伝統文化に対するロマンティシズム
・1917年『ウィンステッド報告』:①学校教育の合理化、統一教育、②地歴教育、③実技教育の重視、④師範学校設立
(2)スルタン・イドリス師範学校
A概要
・「現地語大学の卵」
・パブリックスクールというモデル:寄宿舎、英語学校マレーカレッジ
・タンジュン・マリム:①肥沃、②鉄道、河川、小さな町に近いこと、③英領マラヤの中央部
・1927年、16歳に達したマレー語小学校見習い教員
B教育内容
・「マレー世界」の教育、インドネシア人6500万人
・他のアジア民族運動についての教育
・実技教育によるマレー語教育の正当化
・連帯感
・イスラーム教育
C授業外での知識の獲得
・蘭領東インドの定期刊行物
・SITCの翻訳局:「マレー語学校シリーズ」、ヨーロッパ若年文学の翻訳
・イギリス人教員マレー主義者
・寄宿舎生活
・課外活動;とりわけスポーツ
・軍事教練やボランティア活動
・インドネシア国民党入党と秘密結社運動
(3)マレー民族意識の形成
・民族の再生産
・階層の再生産:庶民層の子孫からなるSITCと王族・貴族層の子弟を主体とするMCKK
・性差の再生産:「良妻賢母」
・植民地教育の換骨奪胎
(4)他の文献から
・インドネシア・ラヤとメラユ・ラヤ
【音楽】インドネシア・ラヤ
【問い】「望ましいマレー人」を目指すという教育は、現在において可能か?可能でないとすると、それはなぜか?逆に植民地社会において、この教育が可能になった要因とは何か?
2.フィリピン:学歴社会の成立
・独立が当初から想定されている。
・1916年までは民政地域と軍政地域(主にミンダナオ、山岳部ルソン)に分かれていたが、その後は民政地域に。
・植民地教育は基本的に民政地域。
・ミンダナオには、ルソン地方、ビザヤ地方からの入植。
(1)教育言語
・英語のみ、SITCのような学校は成立し得ない。
・科目としてもタガログ語を教え始めるのは1930年代後半
・初期教育官僚の考え方:①カシケ(農村のボス)とタオ(大衆)、②タオは無知で、フィリピンには「世論」がない、③タガログ語には見るべき文学がない、④英語はすでに世界のリンガフランカ、⑤タオに英語と簡単な算数を教えれば、小作農から小規模農民に変えられる。
・1920年代の指摘:①十分な数のアメリカ人教員を確保できず、フィリピン人が慣れない英語で教えている。②現地の知識が学校教育を介して継承されない、③3年程で中途退学してしまう生徒が多く、中途半端に英語を学んでも見に付かない。
・多言語社会の問題:1907年植民地議会から教育言語改革法案、20年代に複数提案、しかし、何語で教えるのかで統一できず(タガログ語かそれともそれぞれの地域で話されている言語か)
(2)学校の配置
・小学校低学年(バリオ)―小学校高学年(町)ー高校(州都)―大学・師範学校(マニラ)―アメリカ留学
・実業教育:小学校高学年から複数のコース、しかし、学術コースに人気が集中。
・実業教育の高い維持費とそれぞれに異なる学校(寮の有無、授業の長さ、他)
(3)市民教育
・アメリカの移民教育がモデル
・アメリカ市民性の普遍主義=デモクラシー
・ジュニア・レパブリック=学生自治運動=ジュニア・コモンウェルス
(4)歴史教育
・フィリピン革命の位置付け
・植民地化による産業上・市民上の「進歩」→フィリピン人の歴史家による論述
・カシキズム=フィリピンの遅れた伝統vs.英語を介した近代市民
(5)学歴社会
・小学校の中途退学者=英語能力が不十分→農民、都市のインフォーマルな労働者
・ホワイト・カラー職の頭打ち→高学歴者の失職→実業を生み出さない学歴社会批判
・全植民地的な政治エリート:①町長―州知事―植民地議会議員、②スペイン語を共通言語とし革命に関わった人々→英語堪能な植民地教育を受けた人々、弁護士資格を持つもの多数、③議員数の民族的な割り当て等は行わず。
・総督に権力が集中した政治システム→大統領に権力が集中した政治システム、革命の遺産が政治的意味を持った。ケソン大統領。
・アメリカと交渉し、アメリカに与えられた独立
・アメリカ人教員に対する不信:1930年学校ストライキ
【音楽】バヤン・コ
3.ビルマ:分割統治がもたらした問題
(1)統治体制
A概略
・「管区ビルマ」と「辺境地域」
・「管区ビルマ」:インド総督に任命されるビルマ州知事
・「辺境地域」:伝統的にビルマ王には服属しない少数民族。藩王の残存。
・「管区ビルマ」:管区―県―郡―市(町)―村(村落区)、村落レベルとの世襲実力者を官僚制度の末端に→行政国家・合理的国家
・官僚組織
B複合社会
・宗教的中立政策
・食糧と燃料の補給地としての経済開発
・複合社会の形成 図
C両頭制とビルマ統治法
・第一次世界大戦後のビルマ州知事と立法参事会(植民地議会、教育や農林行政など)とインド総督(外交・防衛・通貨)
・1935年のビルマ統治法:インドからの分離と議会権限の拡大、総督の下の首相内閣制
(2)ビルマ・ナショナリズム
A二つのナショナリズム
・底辺のナショナリズム:1930年代の「下ビルマ農民大叛乱」-小農民層の小作人化と都市労働者化
・中間層ナショナリズム
B中間層ナショナリズムの内実
・学歴:高校卒(中退)―ラングーン・カレッジ(一部)ー英国の大学(ごく僅か)
・アウンサンやウー・ヌはラングーン・カレッジ卒
・アウンサンの場合は、初等教育はビルマ語教育。(ビルマにおける教育制度の本格的研究はない。)
C政治的発展
・YMBA-仏教徒としての連帯
・ビルマ人団体総評議会―植民地議会におけるビルマ人権力の増長
・タキン党:①「主人」としてのビルマ人、②ミャンマーではなくバマー(ビルマ)、口語表現、③我らのビルマvs.彼らのビルマ、④協会という新しい考え方、⑤社会主義思想のとりこみ
→植民地議会内外での活動を活性化、ウルトラ・ナショナリズムへの契機
【問い】現在のマレーシア、フィリピン、ミャンマーにおける民族と政治の関係に、植民地期の(教育)政策はどのように結びついているか。
参照文献:
Soda, Naoki. Conceptualizing the Malay World : Colonialism and Pan-Malay Identity in Malaya. Kyoto: Kyoto University Press, 2020.
岡田泰平『「恩恵の論理」と植民地 : アメリカ植民地期フィリピンの教育とその遺制』法政大学出版局, 2014.
岡田泰平「植民地期タガログ語短編小説にみる教育と近代」永野善子編『 植民地近代性の国際比較 : アジア・アフリカ・ラテンアメリカの歴史経験』御茶の水書房, 2013.
根本敬『物語ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで』中央公論新社, 2014.
根本敬『アウン・サン : 封印された独立ビルマの夢』岩波書店 1996.
根本敬「ビルマのナショナリズム――中間層ナショナリスト・エリートたちの軌跡――」池端雪浦他編『植民地抵抗運動とナショナリズムの展開』岩波書店, 2002. 213‐40.
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6月4日 8.山と川と少数民族(ボルネオ、ルソン島山岳地)
1.課題文献から
(1)ゴムと農民:境界の社会史
・近代産業の基本物資としてのゴム
・それまでの商品作物との違い「自己消費と無縁の工業材料」
・どう語るか:ウォラーステイン「近代世界システム」、フランクら「従属理論」⇔「ゴム経済の直接の恩恵をうけなかった農民社会の歴史」
・時代区分:ブルック植民地統治、イギリス直轄地植民地+オランダ統治、インドネシア共和国、日本占領期、マレーシアの一部(インドネシアとの対抗)
・「近代世界システム」=国家が単位⇔国家を最大の分析枠組み、機能主義や構造主義を越えた「社会史」?
(2)白人王チャールズ・ブルックとゴム生産
・1902年、サラワク政府の下の官立会社ボルネオ・カンパニー
・ゴムプランテーションの成立が後発→ブルックの「反白人的」保護政策:ヨーロッパ人のプランテーション申請を却下、臣下の中国人、インド人、その他の東洋人がゴム園をヨーロッパ人に売ることを禁止
(3)ルンドゥ地区(第一省)の状況
・1920年代になりようやくゴム農園が出現
・第二省では焼き畑からゴム農園へ
・この地区では、焼き畑から1880年代に胡椒、ガンビール、ココ椰子の栽培
(4)フロンティア農民社会とインフォーマル・エコノミー
A大恐慌とクーポン
・ルンドゥ地区のゴム生産が可能:1930年代
・大恐慌→ゴム価格の暴落→国際ゴム協会による輸出量調整と国際条約(1934)→「クーポン制度」
・「クーポン制度」=「採取可能なゴムの出荷量の上限が記してある」
・ウォラーステイン、フランクの言う「周縁化」の発生(世界資本主義の一部に組み込まれる)
B密貿易の形成
・登記しきれない、中国人のゴム園
・クーポンの売買。マレー人農民が中国人商人にクーポンを売却
・「宗主国―植民地国家―地域社会―農村」に整理しきれない境界地域。
・1930年代、蘭領西ボルネオ・サンバス地方からのゴムの密輸入。それまではマスケット銃やタバコの密輸入はあった。
・理由①:成熟した西ボルネオのゴム栽培から未成熟の地域へ。
・理由②:近い国外の市場に売りさばく
・理由③:クーポン制度
・中国人商人:クーポン券購入による取扱量の増加+西ボルネオからのゴム→国際市場に売りさばく
C密貿易の変化
・日本軍政成立による上限制度の撤廃
・インドネシア共和国とカリマンタン州の成立
・朝鮮戦争によるゴム価格の急騰
・ゴム板に加え、家畜類、丁子、タバコ、布地、食料品
・マレー人担ぎ屋への目こぼし、中国人商人の拘束
【音楽】ボルネオの弦楽器
(5)国境の成立と国家経済
・「国家という外部的な政治権力の境界が事実上の効力をもつのは、それが領域内と外との「人」と「物」の移動を規制する動きを付加されたときにほかならない」
・輸出入関税が税収の21%ほど。
・栽培作物よりも森林産物が課税対象
・チャールズ・ブルックの下での人頭税と関税の施行→納税義務→人の移動の犯罪化
・密貿易拠点としてのテロック・スラバン
・ルンドゥ(マレーシア)とサンバス(インドネシア):地域社会=反国家、反システム
(6)密貿易拠点において焼き畑を選ぶ農民
・テロック・ムラノー、テロック・スラバン
・テロック・ムラノー:ブギス人やイスラーム教徒のダヤック人ら移住民による自然村
・ココ椰子、藤などの散発的な現金化、自家消費のための漁業と焼き畑による陸稲(1990年代での同様)
・【なぜゴム栽培をしないのか】という問い
・国際条約の下、ゴム栽培のタイミングを逸した。
・陸路でムラノーやスラバンに行きつくのは困難→査察を受けにくい→海上運輸の経由地
・クチンの中国人商人の店の存在
・危険な商売→参入者が少ない
・ゴム農業ではなく、陸稲耕作を自らが選択→二次森林の不足
・インドネシア兵士や共産主義者による住民の殺害+ゴム価格の低迷:70年代、80年代には、わざわざ森に入り一部植えられたゴムの木から採取せず
(7)本論文の意義
・世界史的イベントではなく、偶発的、散発的出来事から作られる歴史
・「国境地帯は、複数の国家が隣接すれば必ず形成される社会的な場であり、国家機構の中心から遠く離れた一種の解放空間であると同時に、対峙する複数の国家による支配の本質が増幅、強化されるというアンビバレントな性格を持つ。」
【問い】植民地主義と国家建設はどのような関係にあるか。少数民族は、それぞれにどのように関係するか。
2.公司、ブルック、ブギス人
3.フィリピン・ルソン島山岳部
(1)南北戦争の影響と植民地化
・東南アジアにおける奴隷:人狩りとしての戦争
・イスラーム教徒と奴隷
・奴隷解放を為しえたアメリカ/奴隷制が残るフィリピン
・アメリカによる平定→知事・町長などの任命→知事・町長が奴隷主
・キリスト教徒フィリピン人の立場:首狩りを行うイゴロット→キリスト教徒化・低地民化→文明化
・債務奴隷の慣習が裁判に→しかし、アメリカには奴隷を売買に対する罰則がない*→無罪
*1909年に売買に対して罰則を法令化、1948年に奴隷を売ることと奴隷として人を扱うことが本格的に罰則の対象に。
・1909年に植民地総督ウースターが債務奴隷制を禁ずる法案を提出→ワシントンもフィリピン人のナショナリストも反対→法令化されず、報告書にも載らない。
・ワシントン:奴隷制を認めない。→認めることは、植民地主義のもとで、奴隷制を失くせないことを認めることに。
・ナショナリスト:フィリピン人としての平等感を棄損。→アメリカ人がフィリピン人の奴隷制を批判すること→フィリピンに自由を与えたい→植民地からの独立を求める。
・ウースター:低地のフィリピン人は、イゴロットの文化や生活を知らない。
(2)1904年セント・ルイス万博とイゴロット
・文明化の秩序として
・イゴロットの死
・イゴロットの行動ー白人女性とのダンス
・アメリカ人の記憶とイゴロットの記憶
(3)イゴロット・アイデンティティの形成
・アメリカ植民地主義下「非キリスト教徒部族省」の設置
・軍政地域とミッショナリー
・軍政地域からマウンテン州の設立(1905)へ
・避暑地バギオの建設→高地住民という位置づけ、低地キリスト教徒、アメリカ人
・トリニダッド農業学校
・鉱山開発と労務:高地住民と低地住民という区分け→高地住民=イゴロット
・低地キリスト教徒から差別されているという感覚
・1941年の五民族連合(BIBKA)
・州認定→議員の選出
・マルコス政権下での土地からの立ち退き
・民主化と1987年コルディリェラ行政地域の設立
・1997年「先住民族権利法」の成立
4.マレーシア、フィリピンの少数民族の問題
Aマレーシア
・オラン・アスリ:相互扶助、土地の共同所有、焼き畑、森林産物の交易
・マレー人というアイデンティティ:農民、土地の子、イスラーム教徒
・マレーシア政府:森林伐採、1980年代移行のイスラーム的価値、公教育の展開
Bフィリピン
・ミンダナオにおけるイスラーム教徒との問題
・MNLF、MILF、アブサヤフ
・2017年マラウィにおけるテロ
・なぜコルディリェラの少数民族の問題は後景に退いたのか。
【問い】少数民族の抑圧の要因は何か? 開発か、宗教観の対立か、消費主義か、公教育か? それぞれがどのように彼らの文化やアイデンティティを変容するか?
(参考文献)
フィリピン関係のデータベース
The Age of Imperialism
Duncan, Christopher R. Civilizing the Margins: Southeast Asian Government Policies for the Development of Minorities. Ithaca: Cornell University Press, 2004.
Fermin, Jose D. 1904 World’s Fair : The Filipino Experience. University of the Philippines Press, 2004.
Finin, Gerard A. The Making of the Igorot. Quezon City, Philippines: Ateneo de Manila University Press, 2005.
Kramer, Paul A. The Blood of Government : Race, Empire, the United States, and the Philippines. Chapel Hill: University of North Carolina Press, 2006.
Salman, Michael. The Embarrassment of Slavery : Controversies over Bondage and Nationalism in the American Colonial Philippines. Quezon City: Ateneo de Manila University Press, 2001.
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6月11日 9.日本占領の衝撃と脱植民地化の政治(フィリピン、インドネシア、ミャンマー)
1.課題文献から
(1)総論
・「後期植民地国家」体制が崩壊→苛烈な戦争と日本軍支配→国民国家としての胎動
・「東南アジア」という概念規定
a. 大学の講座、b. 地理的区分、南アジアからの分離
(2)「南方共栄圏」下の東南アジア
・資源
・「大東亜共栄圏」、「ABCD包囲網」の打破
・三つの支配形態:当初①旧宗主国との共同支配、②独立国タイとの「同盟」関係、③軍政→①名目的な「独立」ビルマ、フィリピン、②軍政の継続、インドネシア、マラヤ等
・インドネシアの独立宣言と日本軍政
・「南方共栄圏」:初めて一つの権力の下におかれる。
・異なる結果:①欧米植民地支配の瓦解、②フィリピン―対米依存の深化、③ナショナリズムに対する外的刺激―新しい意識「革命的熱狂」
(3)日本占領下の社会変容
A.統治原理
オランダ=「プリンタ・ハルス(たおやかな強制)」
日本=精神的ロマンティシズム+「ビンタ」、「カッサル」
・(インドネシア)劣等感の払拭、反乱とゲリラ行動の闘争精神の再興、土着のファシズム
B.政治・軍事面
・「政治犯」としてのナショナリスト
・日本軍政による組織化・軍事化
C.社会・文明的
・オランダと母語の言語的二重性→日本語の公用語化と失敗→インドネシア語の利用
(4)脱植民地化と地域秩序
・ビルマ:パサパラ(反ファシスト人民自由連盟)、ラオス:ラーオ・イサラ運動、ベトナム:「自由知識人」の無力化
A.地域秩序の萌芽
・1943年「大東亜共同宣言」:バ・モー首相、ホセ・P・ラウレル大統領の地域連帯についての発言
・1955年バンドン会議:「アジア・アフリカ」、軋轢にも関わらず会議が成功、
a. ネルー首相の役割、「第三勢力」
b.中華人民共和国、朝鮮戦争の影響→マラヤでの共産党蜂起、フィリピン・フク団、インドネシア共産党
c. 東南アジア、南アジアの共同歩調
d. インドとインドネシアの影響、ビルマの積極外交
f. 消極的なタイ
g.ベトナム、ラオス、カンボジアと「右ばね」パキスタン→中国の参加→日本の参加
h.オーストラリアの東南アジアに対する関心
i.アセアンの先駆け
・「第三世界コロニアリズム」:インドネシアにとってのパプア州
・「国民国家の虚構性」:東ティモールにおける、親ポルトガル、親インドネシア、独立派
(5)戦後東南アジアへの日本の「復帰」
・伝統的モノカルチャー経済+日本軍政期の経済的惨禍
・対日無賠償案等のアメリカの戦略に対する韓国とフィリピンからの反発
・サンフランシスコ体制の問題:①賠償問題、安全保障問題、地域秩序構築からみても「早すぎた」こと、②賠償が日本の経済進出の呼び水→日本人の戦争加害意識の希薄化
・「物的処理の問題」vs.「国民感情の問題」、前者の圧倒的優位
・1953年外務官僚の「慰安婦の徴用」という指摘。
→東南アジア「開発の時代」に。→1990年代の「パンドラの箱」(慰安婦・強制連行・虐殺・・・)
→(A)「東南アジア史を学ぶ日本人にとって「実証的な研究成果」を土台にした「バランスの取れた歴史への関心」を育くむ上で一助となることを願ってやまない」
【問い】(A)について、どのように考えるか?
2.日本占領期の諸相
(1)どのように多様性を整理するか
・イデオロギーの戦争/資源の戦争
・場所、民族ごとに異なる戦争
・反帝国ナショナリズム/最初に敗れた帝国主義としての日本
(2)ビルマ(ミャンマー):協力・抵抗・独立
Aバモウ(1893年生)
・母親―ビルマ人+ポルトガル人
・父親―コンバウン朝の高官、ビルマ語、英語、モン語、タイ語、フランス語
・本人の足跡:カトリック系ミッションの高校→ラングーン・カレッジ→カルカッタ大学→ケンブリッジ大学→法廷弁護士資格→ボルドー大(フランス)→法学博士
・ヨーロッパ人的な風貌、しかしユーラシアではない。バモオ博士
・穏健左派政党から政界進出→下野して反英→復活し首相→開戦後、対日協力→「独立」ビルマの国家元首
・日本占領下で:ビルマ語の公用語化、国家元首の権威強調、行政管区の合理化
・「大東亜会議」におけるバモオの発言
・その後:インパール作戦の失敗→パサパラの一斉蜂起(1945年3月)→バスでの逃避→日本亡命→新潟での隠棲→東京裁判での戦犯容疑者→恩赦とビルマ帰国(1946年7月)
Bアウンサン(1915年生)
・ラングーン大学(ラングーン・カレッジが4年制総合大学に)での学生運動
・タキン党幹部へ
・自由ブロックという反英組織を結成→中国共産党との連携を模索するために厦門へ→日本軍による拘束→南機関というビルマ謀略組織の機関長に。
・海南島でビルマ人30人と共に、ビルマ義勇軍を結成
・ビルマ義勇軍、日本軍と共にビルマに入るも、独立宣言は許さず、「北伐戦」に参加、しかしその際に成立したビルマ人行政組織は解散→日本軍に対する不信
・バモオ政権への参加
・インパール作戦失敗(1944年7月)→ビルマ共産党、人民革命党、ビルマ国軍からなるパサパラ(反ファシスト人民自由連盟)の結成
・日本軍に対する一斉蜂起(1945年3月27日):千人~5千人の日本軍兵士を殺害
・英軍ビルマ復帰作戦(1945年6月末)、その後の対英交渉で優位に。
・暴力闘争の放棄、イギリス人総督ドーマン・スミスとの対立と和解、アウンサン=アトリー(英首相)協定→ビルマのドミニオン認定
・パンロン会議(少数民族との交渉)→制憲議会選挙→完全独立へ
・ウーソオによる暗殺
Cその後
・ウー・ヌによる「社会主義国家」建設
・ビルマ共産党の反乱、カレン民族同盟との武装闘争、中国国民党軍の残党の北部侵出
・国軍の権力増長→1962年クーデター→ネィウィン将軍を中心とする革命評議会の成立→軍政へ
(3)インドネシア
(占領前)
・「ラジオ・トウキョウ」という短波放送「インドネシア・ラヤ」
・留学生ラデン・スジョノの帰還
・日本軍によるスカルノの説得
(占領期)
・「アジアはひとつ」
・捕虜収容所と朝鮮人
・日系企業→「桜組」という組織→軍協力
・敵性欧米人の収容
・ジャワからの「ロームシャ」
・米拠出制度
・インドネシア人・オランダ人「慰安婦」
・イスラーム工作
・南方特別留学生
(日本敗戦後)
・朝鮮人映画監督「日夏英太郎」=ホヨン
・日本軍武装解除と復員→復員拒否者(残留日本兵、1991年時点で255人)
(4)フィリピン
・コモンウエルス政府樹立(35年11月)―日本軍による占領(1942年1月)―名目上の独立政府樹立(43年10月)―日本敗戦(45年8月)―コモンウエルスに復帰後、独立(46年7月)
・文化政策と虐殺
・異なる戦場:①レイテ(1944年10月)―マニラ(1945年2月)―ルソン島北部の逃避行、②ビザヤ地方:Aセブ、Bパナイ、Cボホール、③ミンダナオ
・ゲリラ抗争:ユサッフェ・ゲリラ(米軍の下)、フク団(共産主義者)、その他(パナイ自由軍)
・対日協力者の問題:エリートと大衆
・異なる裁判:東京裁判、BC級裁判、人民裁判、ヴァルガス・ラウレル裁判
【問い】「日本は東南アジアを欧米の帝国主義から解放した」という価値観への見解(賛同・反対・そもそも誤った問い)を述べ、その見解の根拠を考えてみましょう。
(参考文献)
倉沢愛子 [ほか] 編『岩波講座アジア・太平洋戦争』9巻+別巻 岩波書店, 2005.11-2015.7
永井均『フィリピンBC級戦犯裁判』講談社, 2013.
永井均『フィリピンと対日戦犯裁判 : 1945-1953年』岩波書店, 2010.
後藤乾一他『国民国家形成の時代. 岩波講座東南アジア史』岩波書店, 2002.
根本敬『抵抗と協力のはざま : 近代ビルマ史のなかのイギリスと日本』岩波書店, 2010.
倉沢愛子『資源の戦争 : 「大東亜共栄圏」の人流・物流. 戦争の経験を問う』岩波書店, 2012.
倉沢愛子『「大東亜」戦争を知っていますか』講談社, 2002.
中野聡『東南アジア占領と日本人 : 帝国・日本の解体. 戦争の経験を問う』岩波書店, 2012.
林英一『残留日本兵 : アジアに生きた一万人の戦後』中央公論新社, 2012.
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6月18日 10.市民か、民族か(フィリピン、マレーシア、シンガポール)
1.課題文献:シャムスル「東南アジアにおける国民形成とエスニシティ」から
(1)序
・成功モデルとしてのマレーシア
・災害が少ない、資源が豊か、人口が少ない
・複合民族社会、負の記憶1969年5月13日、クアラルンプールでの人種暴動
・ただし他国と比べると、西欧と比べても、「争いのないマレーシア」
・「マレーシアのエスニック公式」はあるのか?他国に適用できるのか?
・マレーシア成功の三つの要素「治安」、「民族関係」、「開発計画案」
・結末としのて「ビジョン2020年」[私たちはこの「ビジョン」の正否を観察できる立場にある。]
(2)マレーシアの戦後期
A難題
・人種間の軋轢:①日本軍の人種政策:マレー人優遇と華人敵視(華人虐殺)、②日本軍に味方したマレー人vs.敵対した華人、③マレー人全体vs.華人全体
・労働運動の交流→マラヤ共産党(華人集団)→エステート経営者・経営者側労働者への攻撃・殺害→1948年6月18日~1960年7月31日「非常事態宣言」
・経済への悪影響
・1946年1月「マラヤ連合」構想:「出生地主義」の公民権→マレー人の反対→3か月で破棄
・1948年2月「マラヤ連邦」:移民集団に対する落胆
・イギリスの努力:①平和と治安の恢復、②民族間の取引に適した環境の創造、③五カ年計画を通じ統制された計画的な変化。
B反応
・1945年~1957年:イギリス軍政府
・多民族からなるイギリス軍
・治安対策:①身分証明書、②大規模移住計画、③裁判外の拘束
・①+③?→ブリッグス計画→財政負担→朝鮮戦争時のゴムや錫の高騰
・②→「新しい村」
・治安政策のうまく行ったこと→独立の早期の移譲
・ファーニバル「複合社会」:マレー人=稲作生産者、華人=都市商業部門、インド系(タミル系)=ゴムプランテーション
・「マラヤ連邦」と先住民優位
・エスニシティ正統:マレー人国民組織UMNO、汎マラヤ・イスラーム政党PIS、マラヤ華人協会MCA、インド人会議MIC→連邦評議会
・1950年代:UMNO+MCA→「連盟」→1955年選挙における圧勝→「民族間の取引」の完成
・マレーシア憲法=法律文書+エスニック・グループ間での「社会契約」
・「開発計画」:朝鮮戦争による需要、「マラヤ計画部局」、米マーシャル計画の影響
・マレー人による再分配要求:「農村・工業開発公社」(RIDA)→「国家・農村開発省」(トップダウン、戦時方式)
・「治安」、「民族関係」、「開発計画案」の再確認。
3.「国民統合」と「ビジョン2020年」
A理念
・「国民統合」=イギリス植民地政策の目的+マレーシア国家の目的
・物資的成功の優先
・西欧でも完全な「国民統合」はない。[だからマレーシアのような「国民統合」も許容されるべき]
B独立後10年(1957~69年)
・共産主義との長い闘い
・「大衆教練」を伴う治安と諜報システム+公安部
・治安対策の過剰化→経済発展がおろそかに→1969年の民族暴動→二度目の非常事態期間→国家理念「ルクヌガラ」+国家統合委員会
・先住民であるブミプトラ(土地の子)が経済的に劣勢→是正政策としての新経済計画(NEP, 1971年~1990年)。
・NEPの目的:①人種を問わず、貧困を根絶すること。②民族間の経済的不均衡を是正するために、マレーシアの社会構造を再編すること。
C次の20年(1969~90年)
・1971年扇動法
・アファーマティブ・アクション
・しかし、非先住集団も技術と経験を必要としていた。→非先住集団にも利益。
・「国家経済評議委員会」における民族間の対話
・「国家開発計画」(1991年6月~)
・2020年のマレーシア「マレーシア国民」によって出来上がった国
2.マレーシア華人研究の現在
・歴史が書かれない(書けない)
・映画
・インタビュー
・『マレーシア研究』(2018)
・Kyoto Review of Southeast Asia
【問い】華人の歴史は、痛覚の歴史と言えよう。他方、シャムスルの歴史は、調和の歴史である。マレーシア史を題材とし、痛覚の歴史と調和の歴史のそれぞれの利点と欠点を論じなさい。
(3)フィリピンにおける民主主義と排除
1.植民地フィリピンにおける「市民」
・英語を話す⇔英語を話せるようになった人はわずか。(学校教育の拡がりに比例)
・民主主義への参加→学校教育のなかでの「市民教育」、ジュニア・コモンウェルス
・反「カシキズム」(ボス支配)
2.階級の問題
・ルソン島中部の「フク団」
・米軍と「フク団」の戦闘
・対日協力の問題―マヌエル・ロハスの場合(対日協力者、エリート、大統領)
・「フク団」の合法部門「民主同盟」
・アメリカ「フィリピン戦災復興法」と「ベル通商法」(アメリカ人に対する内国民待遇権)
・憲法改正と「民主同盟」議員からの議席剥奪
3.第三共和政
・1946年7月4日の独立
・フィリピン国軍とフク団の武装闘争
・「比米軍事基地協定」「比米軍事援助協定」の締結→基地の固定化
・キリノ政権の誕生→共産党の一斉逮捕→その功績を買われマグサイサイが次期大統領に
・3G(金権、殺人、暴力)の選挙政治の定着
・ガルシア、マカパガルというカリスマに欠ける大統領
・若手政治家の代表格としてのマルコスと1965年選挙で大統領に選出
・1968年フィリピンの毛沢東派共産党(CPP)の誕生
・1970年モロ民族解放戦線(MNLF)創設
・1972年マルコス戒厳令を布告。
4.第三共和政の特徴
・秩序が欠落した社会
・二大政党制の「ショーウィンドウ」
・地方政治の軍事化(私兵団の常態化)
・階級政治の激化と共産主義者の弾圧
・「経済のフィリピン化」→輸入代替工業化→成功せず
・共産主義運動とイスラーム分離運動を鎮静化できず
【音楽】 Bayan ko.
(4)マレーシア、シンガポールをめぐる国際政治
1.サバ問題 サバ州の地図
・1957年:マラヤ連邦独立
・1961年:東南アジア連合(ASA)成立、フィリピン、マラヤ連邦、タイが参加。経済・社会・文化・科学・行政の相互協力。イギリスは1963年8月にマレーシア(サバ州、サラワク州を含む)を独立されることを予定。
・フィリピン・マカパガル大統領:フィリピン、マラヤ連邦、シンガポール、ブルネイ、サラワク、サバをマレー系統一国家として独立することを模索。
・1962年:ブルネイ人民党が武装蜂起→イギリス軍が鎮圧→インドネシアはマレーシア形成をイギリスの新植民地主義として批判。
・1963年:マレーシア(マラヤ連邦、シンガポール、サラワク、サバ)発足に伴い、マラヤ連邦、フィリピン、インドネシアの国家連合構想(マフィリンド, Maphilindo)が支持される。
・サラワク、サバの住民投票、その結果が報告される前に両地域を含むマレーシアが発足を宣言。→フィリピンとインドネシアがマレーシアと対立。とりわけ、インドネシアは「コンフロンタシ(対決)」を宣言し、マレーシアと局地的な戦闘状態に。
2.ASEANの創設
・フィリピン:マルコスが大統領に→1966年にサバ問題を棚上げし、マレーシアと国交正常化。
・インドネシア:1965年に9.30事件。スハルトの下、マレーシアと国交正常化
・シンガポール:①共産化のおそれ、しかしマレーシア成立を契機にシンガポール内の共産主義者を弾圧。②リー・クアンユーが、マレーシアをマレー人中心主義と非難→1965年、シンガポールはマレーシアとは分離独立へ。その結果、中華系74%,マレー系14%,インド系9%(2019年)という人口構成。
・ASAの活性化→東南アジア地域協力連合(含インドネシア)を設立→1967年東南アジア諸国連合(ASEAN、含シンガポール)の設立
・その後、フィリピン・マレーシアの国交再断絶などはあったものの、アセアンを通して修復、アセアン自身は反共的性格も、1976年東南アジア友好協力条約(バリ宣言)、1990年以降共産主義国・ビルマの参加。
3.その後
・マレーシア:民族間の調停の政治と経済成長
・シンガポール:経済的に自立できそうもない社会→「頭脳国家」
・フィリピン:独裁、縁故主義(クローニーイズム)、低成長
・人口(1995年ごろ):マレーシア:2167万人、シンガポール:374万人、フィリピン:7353万人
・一人当たりGNP(1996年, USドル):マレーシア:4370、シンガポール:30550、フィリピン:1160
【問い】民族・領土・階級・宗教から考えると、なぜアセアンのような地域協力機構ができたと言えあるか。また、民族・階級・宗教がどのように関係し、それぞれの国家ができたと言えるか。
(参考文献)
コンスタンティーノ, レナト, 池端雪浦、永野善子訳『往事再訪』 井村文化事業社 1978.
コンスタンティーノ, レナト, レティシア・R・コンスタンティーノ, 鶴見良行, 武藤一羊, 吉川勇一訳『ひきつづく過去』. 東京 井村文化事業社 1979.
山本博之「東南アジア地域統合の模索」古田元夫編著『東南アジアの歴史』放送大学教育振興会, 2018.
山本博之『脱植民地化とナショナリズム−英領北ボルネオにおける民族形成−』東京大学出版会, 2006.
鈴木静夫『物語フィリピンの歴史 : 「盗まれた楽園」と抵抗の500年』中央公論社, 1997.
鈴木早苗『合意形成モデルとしてのASEAN : 国際政治における議長国制度』東京大学出版会, 2014.
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6月25日 11.ベトナム戦争と世界
(1)課題文献から
1. はじめに
・1991年ベトナム共産党第7回大会 「社会主義の道」
・夢よりも「すでに選択された道」
・戦争の経験→世代間継承の問題
2.近代世界からの疎外と社会主義
・西欧的近代の可能性を全面的に展開させようとする思想と運動
・近代的世界からの疎外=「エセ社会主義」?
・プロレタリアート=「疎外=物象化されない」=「反近代」的精神
・アジア諸民族=「プロレタリア民族」
・社会主義=アジアの人々にとっての「誇り」の回復
・社会主義=アジアの人々に「夢」を与える思想
・ベトナムの「南国」意識
・「プロレタリア国際主義」:カンボジア人、ラオス人≠「蛮人」
・「南国」意識→「社会主義陣営の一員」
・ベトナム民主共和国=「社会主義の東南アジアにおける前哨」
・「夢」=千年王国的ラディカリズム=下からのエネルギー:ベトナムで繰り返し見られた現象、ポル・ポトも含む。
3.「貧しさを分かちあう社会主義」と戦争
・「夢」=重工業優先の高度経済成長、所有関係の国有化・集団化、国家の指導性と人々の「主観的能動性」→「貧しさを分かちあう社会主義」
・1965~67年の高級合作社への組織化→大量動員の可能に→男子青年労働力の戦争投入という社会システム→戦後に危機
・人類史的役割:「アメリカ神話の崩壊」と文化的相対主義
・「貧しさを分かちあう社会主義」をめぐる二つの評価:①時代の産物としては有効、②社会主義の危機に帰結
・二つの危機:
①合作社はa経済体制の「先進性」か、b村落共同体の平均主義の固定化という「後進性」か。
②包摂の限界:国権的社会主義体制による社会の包摂力⇔強固な村落共同体の伝統と戦争勝利の経験→「隠れ蓑」としての闇市経済への参加
4.「貧しさを分かちあう社会主義」からの訣別
・北の人々もこのシステムへの抵抗→平等主義による労働意欲の減退
・中越戦争→共産主義という「夢」のイメージ・ダウン(他の東南アジアの共産党への影響!?)
・生産請負制の拡大+ペレストロイカ「改革」の影響→(共産党第6回大会)「刷新」(ドイモイ)
・「ドイモイ」の四つの特徴
①長期の「過渡期」、「過渡期の最初の段階」
②「農業を第一戦線」とする
③国営化・集団化から混合経済体制へ
④国際分業への参与
→豊かさの実感
・「夢」と「現実」の峻別:社会主義か、資本主義下かは棚上げ、「暮らしを豊かにすること」への努力
・しかし、東欧社会主義国の崩壊→峻別の困難→「社会主義の道」の堅持
5.「社会主義の道」の堅持を支える発想
・公有制度の堅持
・一般的・抽象的理念の列挙
論点
①「政治的安定」が「目標」(保守派・穏健改革派)か、「条件」(停滞)(急進改革派)か
②国際経済のなかでの「安価な労働力の供給」→「政治的安定」の重要性
③「東欧の教訓」→共産党の指導的役割
→複数政党制は避けつつ、国家機関の権限の明示と民選期間の権限強化
・ベトナム=「開発独裁」論、の欠如
・「ハノイ―北京―平壌―ハバナ枢軸」から「全方位外交へ」
・西側世界の「社会主義」体制嫌い→「社会主義」の放棄=ベトナムが「ただの国に」
・社会民主主義(資本主義の余剰を労働者に廻す)ではない。
・「社会主義の東南アジアにおける前哨」→「地域国家」
・「ただの地域国家」か、「ベトナム独自の道」=人類的な社会主義の未来という使命感か
6.急進改革派の議論:「人間的な社会主義」
・いままで:「東方のスターリン=毛沢東のモデル」
①民主主義的活動の全廃
②巨大な官僚機構
③資本主義世界に対する鎖国
・主張
①「人間の保護の優先」
②「自然権」→共産党の権力放棄、公民社会への回帰
*第7回党大会との親和性:権力ではなく説得と動員、社会のなかの共産党
7これからのシナリオ
「社会主義の道」堅持論→「夢」としての力がない
①「20世紀社会主義の化石化」:保守的教条の優位
②保守派・穏健改革派の連合→西側諸国が支援、資本主義化と「開発独裁」
③急進改革派の台頭:経済発展と民主化
④東欧諸国シナリオ:安定の喪失と急激な資本主義化
(2)最近の状況
日本「外務省」の見解
ベトナムとコロナ(『朝日新聞』記事)
【問い】上述の「これからのシナリオ」の①~④のどれが当たったか。また、この予想は今の時点からの考えると、どの点が適切で、どの点が誤っていたか。
(3)ベトナム戦争:
1.長期的にみた概略
1945年8月 八月革命 ハノイ、フエ、サイゴンにおける共産主義者の蜂起→ベトナム民主共和国の成立
1946-1954年 第一次インドシナ戦争 フランスに対する戦争、ジュネーブ協定まで
1965-1975年 第二次インドシナ戦争 ベトナム戦争のカンボジアへの拡大、サイゴン政権の陥落まで
1978-1979年 第三次インドシナ戦争 ポル・ポト派に対するベトナムの攻撃、中国のベトナム侵攻
2.概念
ドミノ理論、社会開発、「貧しさを分かちあう社会主義」、解放戦線、戦略村、辺境、デタント、ポル・ポト派
3.概略
1954年 ジュネーブ協定 米・ソ・英・仏・中が北緯17度線でベトナムを分断。
北:ベトナム労働党、南:親仏、カトリック
1957年 南:アメリカ援助によるサイゴン政権(ゴ・ディン・ジエム政権)の安定←米「ベトナムの奇跡」
北→民族の統一、南→共産主義者への弾圧
1961年 ラオス危機と解放戦線に追い詰められるサイゴン政権
1963年 労働党、ゲリラ戦を展開し、サイゴン政権軍を撃破。
1964年 トンキン湾事件と米の「報復」
1964年 労働党の正規軍、人民軍の南部進行。
1965年-1968年 全面戦争
米戦略「敵に勝ち目がないことを悟らせる」
ベトナムの自己認識 ホーチミン「独立と自由ほど尊いものはない」労働党「辺境としてのベトナム」
大量動員、ゲリラ戦
北爆:第二次世界大戦のアメリカ軍使用量の三倍の爆弾
テト攻勢:1968年旧正月にフエ、サイゴンを攻撃→失敗
アメリカの反戦運動
1969年-73年 戦場と外交
カンボジアへの戦線の拡大
1972年の革命軍の大攻勢
パリ会談(1968年から)の失敗、クリスマス爆撃、1973年の終戦協定
1973年-75年 サイゴン政権の結末
サイゴン政権の危機:経済危機、アメリカの援助削減、
1975年 サイゴン政権の崩壊
【音楽】ラジオ・プノンペン
4.アメリカにとってのベトナム戦争
Aケネディ(1961-1963):
・正規軍ではなく対ゲリラ戦特殊部隊グリーン・ベレーによる「特殊戦争」
・反共産としての社会開発 ランズデールの経験:フィリピンでの成功→サイゴン政権へのアメリカ大使候補→ゴ・ディン・ジエムの無関心
・ゴのカトリック教徒優遇に対する仏教徒の反発→焼身自殺→側近の妻の「バーベキュー」発言
・アメリカ支援の下でのズオン・バン・ミン(ゴの子飼いの将軍)によるCIA支援のもとのクーデター
Bジョンソン(1963-1969):
・ズオン政権の容共路線→再度のクーデターとアメリカの支持→アメリカのサイゴン政府の改良に対する失望→ベトナム共産主義者との軍事的対決
・1964年8月7日 トンキン湾事件
・1965年の人民軍の攻勢→サイゴン政権崩壊の危機→アメリカによる北爆の開始
・1965年から 世界的な反戦運動→アメリカ反戦運動の盛り上がり(公民権運動の繋がり)→徴兵拒否、脱走兵
・テト攻勢と反アメリカ国際世論の盛り上がり
・ベトナム関与の縮小傾向
Cニクソン(1969-1974):
・「名誉ある撤退」アメリカ軍の縮小(22万71年→5万72年)とサイゴン政権軍(100万以上)への援助
・北から南への補給路破壊のために、アメリカ軍によるカンボジア・ラオスへの空爆→カンボジアでのクーデターと親米政権の樹立、ラオスへのサイゴン政権軍の侵攻→人民軍のカンボジア・ラオスへの侵攻
・デタントにより中・ソと友好関係を演出し、ベトナム包囲網を築こうとした。
・クリスマス爆撃とパリ和平交渉の再開→ウォーターゲート事件→アメリカのサイゴン政府への援助削減→1975年 サイゴン陥落→カンボジアにクメール・ルージュ政権成立、ラオスにもパテト・ラオによる共産党政権の樹立
5.グローバルな戦争としての性格と残り続ける問題
・韓国軍の参加
・枯葉剤
・アメリカ人・韓国人の平和運動
・西沙諸島
・「ガイ族」の問題
・新しい展開:東西回廊
【問い】ベトナムの事例から、資本主義の発展は、領土問題、民族問題、「記憶」の政治をめぐる問題を解決しうるか?
(参考文献)
伊藤正子「韓国軍のベトナム派兵をめぐる記憶の比較研究」『東南アジア研究』48(3) (2010): 294-313.
伊藤正子『戦争記憶の政治学 : 韓国軍によるベトナム人戦時虐殺問題と和解への道』平凡社, 2013.
小倉貞男『ドキュメントヴェトナム戦争全史』岩波書店, 2005.
朴根好『韓国の経済発展とベトナム戦争』御茶の水書房, 1993.
藤本博『ヴェトナム戦争研究 : 「アメリカの戦争」の実相と戦争の克服』法律文化社, 2014.
ビルトン, マイケル, ケヴィン・シム著, 藤本博訳『ヴェトナム戦争ソンミ村虐殺の悲劇 : 4時間で消された村』明石書店, 2017.
古田元夫『歴史としてのベトナム戦争』大月書店, 1991.
吉沢南『私たちの中のアジアの戦争 : 仏領インドシナの「日本人」』有志舎, 2010.
吉沢南『同時代史としてのベトナム戦争』有志舎, 2010.
Porter, Gareth. “Vietnam’s Ethnic Chinese and the Sino-Vietnamese Conflict.” Bulletin of Concerned Asian Scholars 12 4 (1980).
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7月2日 12.人々をつなぐ宗教(タイ、インドネシア)
(1)課題文献から
1.初めに
・多様な宗教運動
・スコット:低地国家との対立
・タンバイア:国家・制度宗教・森の宗教
→速水:国家が重要ではない。
カリスマ:ウェバーのカリスマ支配⇔仏教の聖遺物と聖者のカリスマ
仏塔建設:禁欲の真正性、力のある人物の偉業
山地・低地の二分法の否定
2.国境域の宗教運動
A.歴史
・兵力、道案内役、情報提供者、荷役夫、食料供給者
・「特異な宗教活動」
・1947年カレン民族同盟KNU設立
・カレン民族―キリスト教への改宗、タイービルマ国境地域における仏教徒
・出現する未来仏―反キリスト教、反国家として描かれる。
・国境を越えた逃避と信者のコミュニティ
B.共通点
a.指導者の道徳的生活、儀礼
b.グチャ(主)としての指導者、過去の指導者の継承者または生まれ変わり
c.文字
d.仏塔建設
C.制度宗教との関係
・仏教実践の要素、元僧侶の関与
・精霊信仰=非仏教とは言い難い
3.カレン州の仏教聖者
A.ウ・トゥザナ
・ターマニャー僧正という修行僧の弟子、政治的中立
・見習い僧、KNUの軍事組織に徴兵
・70の仏塔、40の戒壇堂の建設
・白い仏塔→KNUからの反感→民主カレン仏教徒軍の分離
・ミャンマー政府との和平
・州都パアンでのインフラ整備
・信者の採食や基本的原則
・神秘主義
・寄進と聖性の難しいバランス
・古い文字リチョウェの発見
B.仏塔建立の意味
・4つの力
・建築を完遂する力→一体感
⇒信者集団+寄進という求心力→KNUとの緊張→政治性
4.北タイにおけるクルーバー
A.抵抗のクルーバー
・徳を積む=トンブン
・クルーバー=徳高く尊敬を集める僧侶
a.スィウィチャイ
北タイ・サンガの独自性を守ろうと努力、
苦行
b.カオピー
スィウィチャイの弟子
収穫や雨をもたらすグチャ、
カレン人も信者に
c.ウォン
寺院による雇用
修行と聖性
タイ国家の有力者である寄進者向けのコテージ
⇒国家と対立しない
⇒少数民族の信者→雇用、信頼
5.国境を越えた仏塔建設
A.ウ・トゥザナ
・カオピー、ウォンとの関係
・災害後の仏塔建設:労働者、寄進、許可
・見習い僧に留まり、労働
・1600段の階段
・「カレン人にしかできない」
・ウ・トゥザナの事業:ミャンマー、タイで400以上
・タイにも拠点があること:ミャンマー政治からの距離
・国境域の連続性
6.仏塔建設と宗教運動
A.聖者と信者の関係
・徳を積む
・サンガを介さない、力の真正性
・慈愛
B.仏塔と聖者のカリスマ
・徳を高める中心としての仏塔
・聖者が世俗権力から距離を置くことを可能に
C.国境という特性
・他方へ逃れる
D.民族
・信者は民族単位で形成されない
⇒低地権力への追従でも抵抗でもない
7.結語
・実践への関心
【問い】上座部仏教社会における国家と宗教はどのように関係しているか。国家、サンガ、聖者、信者という観点から考えると何が言えるか。
(2)開発主義
1. 一般的定義
「私有財産と市場主義(すなわち資本主義)を基本的枠組みとするが、産業化の達成(すなわち一人当たり生産の持続的成長)を目標とし、それが役立つかぎり、市場に対して長期的視点から政府が介入することも容認するような経済システムである」(村上)
①重点産業の指定、②産業別指示計画、③技術進歩の促進、④価格の過当論争の規制、⑤保護主義政策、⑥補助金政策(村上)
⇒近代経済学を修めた官僚による経済計画と経済運営
2.東・東南アジアの開発主義【図】(末廣)
①経済に関わる国家機関の整備→アメリカ帰りのテクノクラートが支配、強い権限
②国家による通貨・為替制度の管理
③労使関係に対する国家の直接・間接的な介入。
④国民に還元する社会政策
⑤反共政策
3.この制度を可能にした要因
資本主義と社会主義の間のシステム間競争 ①技術開発(例 スプートニックvs.アポロ計画)、②途上国向け戦略的経済援助(USAID)、③経済成長率/生活水準(米ソ台所論争)
国内条件 反共ナショナリズム(共産主義者=非国民)、国家の全面的な経済介入と政治腐敗、軍を利用した危機管理
4.開発独裁
・一般的イメージ「秘密警察や治安警察軍の暗躍に代表される「恐怖政治」や、言論、集会、結社といった政治的自由を抑制する「強権政治」」(末廣2000, 114)
・長い間持続
・理由1:ナショナリズム
・理由2:「議会制民主主義」→腐敗→軍による粛正への賛同
・理由3:「成長イデオロギー」
(3)タイの開発独裁
1.概略
「ポー(父)・クン(王)の政治」「ラックタイ(タイの礎)」(民族・宗教・国王)
タイのクーデター【図】
2.開発主義の位相
・ピブーンの経済ナショナリズム:①「タイ人がつくり、タイ人が使う」、②外国資本の導入に消極的。
・サリットの経済政策
①国営・公企業の活動の抑制、②国内民間企業の投資奨励、③外国企業の積極的誘致、④国内産業保護のための輸入関税の大幅引き上げ
投資奨励政策:①外国人出資の上限撤廃(それまで49%)、②外国人の土地所有規制の緩和、③配当利益などの海外送金自由化、④民間企業における労働組合結成禁止
欧米留学テクノクラートによる経済政策の策定
欧米人専門家の登用→彼らの政策を受け止めるアメリカ留学タイ人官僚
サリット55歳で肝硬変で死亡。
3.反共政権の誕生
・ベトナム戦争
・タノームらの政策:
反共主義:
政治体制の深刻な腐敗
共産主義者の攻勢:北爆の8割がタイ発→タイ共産党1965年から武装闘争
対抗:「農村的開発計画」①アメリカの経済援助、②軍人や地方役人の動員、③サンガ組織や村の僧侶の動員、④村民からのなる自警団の結成
『1968年憲法』→タイ国民連合党の結成(タノームが党首)→軍事翼賛政党→1969年選挙→連合党の勝利→実質的な権力+民主主義
しかし、再度クーデター 彼らの言う理由①共産主義勢力の脅威、②憲法を濫用する政党人→権力支配の足枷となる憲法や政党の除去。
4.学生・知識人ブロックの形成
タイ全国学生センターの設立
「民主主義のすべての道はタマサート大学につながる」
40万人の学生と市民が大学に籠城
73年の10月14日政変、国軍が100人以上を殺害。
国王ブミポンの声明により、タノームらの亡命を強要。
国王の役割:学生センターとの対話、テレビでの声明、サンヤー首相の任命、2500人からの暫定議会の招集
なぜより酷い事件にならなかったか。①学生の要求が憲法制定で、反軍政ではなかった。②タノームの部下の陸軍大将が命令拒否し学生・市民の鎮圧をせず
5.労働運動と軍事衝突
血の水曜日事件(1976):国境警備警察隊によるタマサート大学における100人以上の殺害、レイプ
その直後のクーデター(1976年10月5日)(憲法廃止、国会解散、政党結社の禁止)「タマサート大学にお集まる共産主義者が国家の転覆を謀った」という理由。
「森の戦い」共産主義者による武装ゲリラ戦
共産主義者の分裂:①中越戦争の余波、中国派とベトナム・ソ連派の対立、②「森の戦い」におけるタイ共産党と民主勢力の間の対立、半封建・半植民地vs.資本主義社会という理解の相違、③その後のプレーム政権による共産主義者の懐柔、投降すれば罪は問わない。
その後の混乱
6.その後のサイクル
腐敗→クーデター→市民の反発→軍による市民の弾圧→国王の調停→軍政→議会選挙→民政→腐敗
変化:①国王の介入の常態化・迅速化、②「上からの民主化」、③外資(アメリカ、日本)による安定化要望。(①についてはブミポン九世王の死亡)
7.まとめ
・ポピュリスト・タクシンの登場:赤(農村、大衆)、黄(都市、知識人)
・クーデターのサイクル
・タイの工業化
【音楽】インドネシアのデス・メタル
(4)インドネシアの開発独裁
1.1965年9.30事件後
事件の総括
Aスハルトの予備的クーデターという性格
B共産主義の壊滅的打撃
C「問答無用」の暴力=権力→死の恐怖
2.公務員の汚職とその経済的背景
政治文化
「親父(バパ)」「子分(アナック・ブア)」
官の論理:①税収に頼らずとも、国営企業により利益が上げられる体制。②開発によるパンチャシラ民主主義の安定。パンチャシラ民主主義:①唯一神への信仰(反共産主義)、②公平で文化的な人道主義、③インドネシアの統一、④協議と代議制において英知によって導かれる民主主義、⑤インドネシア全人民に対する社会正義
5年に一度の形式的な選挙(ゴルカル[公務員組合を中心とした組合連合体]による勝利)
政府(バパ+経済テクノクラート)―チュコン(政商)―国際企業・援助団体によるコネクシ
開発をもたらす独裁:年7.5%の成長率、米の自給、教育の拡大
「トゥット・ウリ・ハンダヤニ」(良き父親)というイデオロギー:息子バンバンが密かに事業をやることは良い。それは父親スハルトの役割だ。しかし、「あまり親の威光をかさにきて野放図に商売をやるのはまずい」
華人資本:アヘン請負業者(19世紀末)、砂糖王(20世紀初等)、チュコン(スハルト時代)
チュコンの勃興とコングロマリットへ:スカルノによる「政治」の「経済」に対する優位:オランダ企業の資本接収、西イリアンの制圧(解放)→財政危機→スハルトによる「ノン・プリブミ」(華人)の登用、華人と援助団体・国際企業とのコネクション
例)サリム・グループ(華人資本):1940年代タバコ向けの丁子(クローブ)の輸入による蓄財、1950年代スハルトが指揮したディポネゴロ師団への物資納入、銀行の買収。その後の展開:
特徴1:セメント、製粉、自動車販売などなど、儲かるのであれば際限なく業種を拡大。
特徴2:スハルト一族の天下り先。
特徴3:スハルトの指示による政府・国営銀行からの融資。→サリム・グループは多国籍化を図る。
「チナ」問題:プリブミから見れば羨望と蔑視の対象。スハルトはコングロマリットに株式の一部をゴルカルの下部組織に「株式譲渡」するように要求。「社会的格差の是正」を求める。→スハルトに対する大衆の指示。文化を持たず、国民像に組み込まれないチナ。⇒例)1998年ジャカルタでの暴動、1200人の華人死亡。
3.地殻変動:
・石油ブームの終焉
・教育の拡大による中間層の増大
・世代の交代(死の恐怖を知らない世代が有権者の大半に)。
4.アジア経済危機
タイ・バーツの下落:1997年6月=100、1998年1月=50
同時期の各国の通貨の下落:フィリピン=75、マレーシア=70、韓国=65、インドネシア=25 ⇒過剰流動性・短期資本の問題。
IMFの構造調整:アジア型制度説から政策失敗説へ。(パニック論は看過。)→銀行、ノンバンク系金融機関の閉鎖。会計制度の透明化。公的部門の縮小。
5.インドネシアの場合⇒民主化
巨大になりすぎたゴルカル内の権力争い
その後の首相
・ハビビ(1998~1999):スハルトの後継者(副大統領)、メッサーシュミット社の技術担当CEO
・ワヒド(1999~2001):イスラム主義者、ゴルカルの支持→不正資金疑惑
・メガワティ(2001~2004):スカルノの娘→物価上昇、汚職
・ユドヨノ(2004~2014):ワヒド政権、メガワティ政権の閣僚→アチェ分離独立運動との和解、2004年及び2006年の地震の復興
・ジョコウィ(2014~):地方議会出身、庶民派
6.暴力の連鎖
ベネディクト・アンダーソンは、インドネシア史における暴力の連鎖を次のように説明する。警察国家であるオランダ植民地主義が、日本軍の侵略によって急に崩壊する。日本による占領は、拷問や処刑を用い、大量の餓死者を生み出し、大規模な労務動員を行った。その後、四年間に及ぶオランダとの独立戦争では、貴族層、植民地政府への協力者、華人に対して、日本軍によって訓練された共和主義者の軍組織、民兵団、イスラーム教徒の軍隊が入り乱れて暴力を振るった。五〇年代の民主化期には、モルッカ諸島、アチェ、スラウェシ島南部、ジャワ島西部および中部で軍事反乱が生じた。五〇年代末には、CIAによって引き起こされた内戦状態が生じ、六〇年代半ばには、共産党シンパを中心とした人々六〇万から二〇〇万が、国軍および暴徒化したムスリム、カトリック、プロテスタント、ヒンドゥー教徒によって虐殺された。その後、インドネシア「新秩序」政府による東ティモール占領においては二〇万人の人々が殺され、一九九八年にスハルト政権が瓦解すると、民族間、宗教観、村の間での抗争が生じ、数千の人々が暴力の犠牲となった。このような暴力の連鎖は、スハルト政権後も続いている。岡本正明によれば、分権化が進み、地方選挙は行われるようになったが、逆に権力が分散したことにより、「ジャワラ」と呼ばれるヤクザが地方政治に関わるようになった。
7.イスラーム化
A.スハルト政権崩壊後
B.消費するイスラーム文化
・イスラーム・ファッション
・中間層における祈祷・瞑想の再発見
C.インドネシアの伝統的イスラーム
・サントリ(熱心)とアバンガン(中庸)
・ジョコウィとプラボウォ
D.テロリズム
・バリ2002~2005年
・イスラーム国
E.スハルト政権末期とイスラーム主義
・世俗独裁政権のほころび
・高学歴化→大学におけるイスラーム・サークル
・スハルト後のイスラーム政党の容認
・イスラームに基づく社会浄化運動(反消費主義)
・パンチャシラ・ナショナリズムからアフガニスタンへ。
【問い】ポスト開発主義(開発主義以後)の東南アジア世界の特徴とは何か?
(参考文献)
Benedict R. O’G. Anderson, “Introduction,” in Benedict R. O’G. Anderson and Cornell University, Southeast Asia Program (eds.), Violence and the State in Suharto’s Indonesia, Ithaca, Cornell University Press, 2001, pp. 9-10.
大沢真幸,姜尚中『ナショナリズム論・入門』有斐閣, 2009.
岡本正明『暴力と適応の政治学 : インドネシア民主化と地方政治の安定』京都大学学術出版会、2015年。
末廣昭『タイ―開発と民主主義』岩波書店, 1992
末廣昭『キャッチアップ型工業化論-アジア経済の軌跡と展望』名古屋大学出版会, 2000
末廣昭編『東南アジア史9 「開発」の時代と「模索」の時代』岩波書店, 2002
白石隆『新版 インドネシア』NTT出版, 1996
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7月9日 13.発展の陰の貧困と少数民族(フィリピン、タイ)
(1)課題文献から
1.はじめに
・番犬から座敷犬へ 「このピオロの姿こそ、我々人類のほぼ全員の漂着先を暗示しているように思われる」
2.「悪徳の栄え」の時代
A「錬金術」
・「お金」に対する「信用」
・マートン:自己実現する予言
・虚構の結果①:拝金主義、(ビンスヴァンガーによる)「美」の喪失、安全性の喪失、精神的喪失
・虚構の結果②:格差の拡大、(FRB総裁ボルカーに代表される)金利水準から貨幣供給量へという目的の転換
・虚構の結果③:「革命」への恐怖、(ハラリによる)「資本家もまた字を読める」最上位の階層の固定化、「能力説」の喧伝
B「古き良き時代」の終焉:「第三世界」から「第三の市場」へ
・前提:資本主義=資本家が労働者を搾取
・「開発研究」=経済学の最底辺
・1980年代=プラザ行為の時代:日本停滞、新興諸国の政府系ファンド、社会主義の終焉
・1990年代=イデオロギー対立や武器製造・流通の消滅(と思えた)。
・「弱者」=「適格労働者」=「適格消費者」+四つの自由(表現、新興、欠乏、恐怖)+平等の実現、といった「普遍的価値」
・2000年代=アメリカのサブプライムローン、日本の「国益重視」、貧困ビジネス
C新しい社会主義:「すばらしい新世界」
・「不完全な社会主義」は「不完全な資本主義」に劣る。情報収集処理能力の差。
・「完全な社会主義」への近接:ビッグ・データ、AI、生命科学
・「国家社会主義」は復活しない。
・「社会主義は資本主義に取って代わる」というマルクスの予言が実現されるのは今後。
・オスカー・ランゲ「社会主義経済生産論争」の復活:「上からの最適な資源配分」が可能に。
・GAFAか、党中央か、というだけの違い。同じ「資本主義」の「双子」
・ハラリの「ホモ・デウス」「強者」「選ばれし者たち」と「無用者階級」
・「無用者階級」の間引き=環境主義に肯定的
・「選ばれし者たち」と間引きされなかった「無用者階級」の最大多数の最大幸福という目標。
D「ホモ・デウス」時代における地域研究
・貧困層の消費水準の向上=所得水準の増加
・AI,ビッグデータの活用→ニーズの明示化→国民国家という枠組みの消滅→地域研究・開発経済学の消滅
・情報漏洩の恒常化
・強者にとっての「多様性」の有用性、ここに「抵抗」の契機
3.「食」を支配する資本
A「新しい貧困」
・「貧困層比率」の低下
・一人当たりのGDPの向上
・1985年の調査地:生存の危機、極めて不十分な食事
・1990年代末頃の調査地:食事の「向上」、肉の過剰摂取
・高血圧、糖尿病の登場
・肥満児の出現とメディアでの表象
B「貧困」の変容:「飢餓」から「肥満」へ
・平均余命の絶対的向上/国家間比較における順位下落
・先進国型「生活習慣病」の増加
・死亡原因の比較
・粗死亡率(医学英和辞典「ある年の全人口に対する死亡数比」)の2005年からの上昇
・「強者」にとっての適正人口
・一億人を超えたフィリピン人口
C「強者」の生産戦略:「緑の革命」から「ゲノム編集食品」へ
・福祉よりも「工業化」
・開発経済学による農業の役割:①生産における貢献、②生産要素における貢献、③市場における貢献、④外国為替における貢献
・開発経済的、短期的成功例としての「緑の革命」→品種改良、殺虫剤などの多用①
・オルターナティブとしてのSRI(混作、農畜副業経営、マメ科作物の活用)
・①の帰結→アグリビジネスの興隆、種子の知的所有権化、「社会関係資本」の衰退→「分割統治」
・遺伝子組み換え種子(GM種子)の問題
D「強者」の販売戦略:「支配」から「援助」へ
・金持ちや宗教指導者によるGM作物の忌避
・安全な非GM作物=「強者」向け/GM作物=「弱者」向け
・安価な「新種子」による「旧種子」の駆逐
・流通・認証制度における非GM/GM区分の困難
・有期農作物の厳しい認証制度 *亜種としての「GM種による有機農作物」
・有機作物=「強者」向け=コストを支払う用意あり/GM作物=「弱者」向け(②)
・しかし「/」のコストを払う気は「強者」にもない。「強者」は②を広めたい。
4.「食」を創造する技術
A有機農業について
・マルクス経済学者による農業の基本的価値:①食料の安定的な供給、②安全な食料の生産、③自然的環境の保全、④社会的環境の保全
・宇沢のコモンズ論:「文化的、社会的次元」の「社会的共通資本」→反TPP
・短期的な高収量vs.技術的に難しい有機農業
・有機農業:3~5年で安定的かつ高い生産性が可能。
B「弱者」の生産戦略:「種子」と「技術情報」の多様化
・フィリピンにおける有機農業に関する関心の向上:BIGAS (1985), MASIPAG (1987)
・SAC-GP:「基礎キリスト教共同体」
a. 中西の調査地ギンバ町C村
・導入17年後、400世帯中17世帯
・複合経営、水牛の活用
・なぜ有機農業は広がらないのか→(GM)F1種タマネギ。換金作物、ここからの土壌汚染、有機農業認定を受けにくい。
・SAC-GPの影響の大きさ:種子交換、情報交換、労働力交換、有機農業研修
b. 西ビザヤ地方アクラン州カリボ町のデラ・クルーズ氏のプログラム
・有機蔬菜の栽培、自給用、しかし実験農場としての役割も
・複合経営
・有機防虫剤
・目的:適正規模内における生産資材の特化と共有
・循環ではない→各農家による作物・家畜の多様化と有機肥料・有機防虫剤などの生産資材の特化生産と生産体内共有。
C「弱者」の小売り戦略:「嗜好」の利用と「差別化」
・生産:初期において「非効率」
・供給:富裕層向けの特別の市場、匿名性のある一般市場では認証等もあり生産・小売り価格が高い→貧困層には行き届かない。
・GM作物の作付面積の急速な拡大。
・地方自治によるGM作物制限(東西ネグロス州)。有機作物を利用したレストラン
D有機農業の可能性
・小規模市場が向いている。
・「ニューエコノミー」=「スターシステム」「一つの世界」「一人勝ち」
・有機農業=多様性、小規模、狭隘なコミュニティ
→有機農業=「弱者」の交渉力の増大
5.結語
a.「モーツァルトの法則」人口増加→技術革新。
b.大規模消費者→技術革新→収穫逓増→技術の陳腐化→新商品間における「独占的競争」
a. しかし分布の問題。
b. 「強者」が勝ち続ける
・IoEの危険性
A有機農業の特徴
a. 強い地域固有性
b. 民主知
B問題
・地域固有性、民衆知は、冷戦終結以後の「普遍的価値観」に包摂されなければならない、という思想が支配的。善意による拡散。
・むしろ「弱者」の情報を「強者」に使わせないことが求められる。
・閉じられたネットワークの有用性。
・食の安全において:先住民などの民主知が、科学知に優るということ。
→「一つの世界」から切り離された、アナログ的手法による地域研究が求められる。
【問い】最近、東京大学でも「持続可能な開発目標」(SDGs)の教育が求められているが、上述の視点をかんがみると、このアプローチの問題とは何か?(特にターゲット2.4や2.5)また、SDGsを設定することは、世界にとって良いことか?その理由は?
国連
朝日新聞社
国連食糧農業機関
(2)開発経済学とスラム
1. 基本概念
a「スラム」:「物質的に劣悪な居住環境にある低所得者層の居住地域」、上下水道・電気といった公共サービスの整備の有無
b「都市インフォーマル部門」:
・各都市における割合、
・概念:「都市フォーマル部門」に雇用されなかった残余の都市労働を雇用する部門、完全競争的
①低い参入障壁、②現地資源の利用、③家族経営、④小規模経済単位、⑤労働集約的な低い技術水準、⑥公的機関外技能習得、⑦公的規制のない競争的市場
c理論
・二重構造経済発展理論
・農村都市間人口移動論
d第三世界の特徴
・都市の肥大化(典型としてのマニラ)
2.調査方法
・地理的環境
・人口と家族構成
・共同体的組織
・一般生活水準(所得水準、金融資産・負債、耐久消費財、家屋、教育水準、)
・出身地方
・就業実態
3.オーラル・ヒストリー
・臨時雇い土木建築労働者
・洗濯女
・廃品回収人
・仕切り場経営者
4.理論:パトロン―クライエント関係
・「ウタン・ナ・ロオーブ」(義理)と「円滑な人間関係」
・「暗黙の契約」
・都市インフォーマル部門に内在する雇用吸収メカニズム
→貧困者の政治研究へ
【音楽】ピノイ・ロック、Aegis、Halik
(3)少数民族と貧困層
1.サマ(バジャウ)
・海洋民、100万人
・対象:その内、ミンダナオ島ダバオ市貧困地区に住んでいる人々
・呼称:サマ、バジャウと言う呼称:サマ=タウスグ「唾を吐きたくなる連中」、バジャウ=タウスグ>サマル>バジャウ(イスラーム化された順)、陸に上がったバジャウ=サマル
・開発経済学調査
・生業:漁民(ダイナマイト漁含む)、古着の小売り、物乞い
・複層的な差別:陸のサマ/海のサマ、サマ/ダバオ社会、キリスト教ミッション/イスラームのサマ、イスラームのサマ/キリスト教化したサマ
・エンパワメントに対する壁:①外部からの資源(能力)移転、②社会内部での力の再配分豊かさを意味するもの:家・漁具・キリスト教、その欠如による差別
2.研究者としての貧困との向き合い方
・貧困者支援
・公共人類学
・内向:親密であること、受け身であることの力、描写ではなく聞くこと
3.病と生存戦略
(4)国家と少数民族
(フィリピン)
・1997年先住民権利法:土地が基礎
・被災
・中部ルソンのアエタ:ピナツボ山の爆発と避難
・国家支援の不十分さ
(タイ)
・無国籍者としてのモーケン
・物乞い
・ミャンマーでの違法操業
・国立公園建設と新たな仕事
→環境国家と少数民族
【問い】現代の少数民族研究において、国家(またはそこからの離脱を意味するアナキズム・無政府主義)は有用な概念か? 少数民族がどのような状態に置かれた時には有用でなく、どのような状態になった時に有用か?
(参考文献)
ラカス編、越田清和訳『ピナトゥボ山と先住民族アエタ』明石書店, 1993.
遠藤環『都市を生きる人々 : バンコク・都市下層民のリスク対応』京都大学学術出版会, 2011.
佐藤仁『反転する環境国家:「持続可能性」の罠をこえて』名古屋大学出版会, 2019.
清水展『噴火のこだま : ピナトゥボ・アエタの被災と新生をめぐる文化・開発・NGO』九州大学出版会, 2003.
青山和佳『貧困の民族誌 : フィリピン・ダバオ市のサマの生活』東京大学出版会, 2006.
中西徹『スラムの経済学 : フィリピンにおける都市インフォーマル部門』東京大学出版会 1991.
日下渉『反市民の政治学―フィリピンの民主主義と道徳―』法政大学出版局, 2013.
木場紗綾「都市貧困をめぐる「政治利用」と住民運動の主体性:マニラ市パローラの事例から」『国際協力論集』 13 3 (2006).
木場紗綾「「選択と競争」のスラムにおける生存戦略 : マニラの住民組織の25年」『歴史学研究』888 (2012): 24-39.
鈴木佑記『現代の「漂海民」 : 津波後を生きる海民モーケンの民族誌』めこん, 2016.